
サブテレニアン20周年メモリアルⅣ
街の星座
「都市残酷」


サブテレニアン20周年メモリアルⅣ
Machiza≠Labo Vol.4
「都市残酷」
原作:ワリス・ノカン「都市残酷」(田畑書店)
翻訳:下村作次郎
演出・脚色:豊川涼太(街の星座)
8月28日(金) 15時☆/19時30分☆
8月29日(土) 14時/19時
8月30日(日) 13時/16時30分
(開場は開演の20分前)
☆の回はアフタートークあり
ゲスト/ワリス・ノカン氏 下村作次郎氏
出演:
青木友菜
小河タイラ
佐倉ゆい花
サテライト☆ちぐさ
まるも
(以上、街の星座)
宇都出一真
当日・予約3000円
高校生以下1000円
チケット予約/https://shibai-engine.net/prism/pc/webform.php?d=fqgbdz2u
お問い合わせ/machinoseiza@gmail.com
舞台監督:コトデラシオン(十六夜基地)
照明:豊川涼太(街の星座)
音楽:kawahaze
フライヤーイラスト:Roly0601
衣装:佐倉ゆい花(街の星座)
メイク:えさわけい(街の星座)
主催:街の星座
共催:サブテレニアン
台湾の原住民族は、台湾島に古くから暮らしてきた先住民族で、現在は政府に16民族が公認されている。狩猟や焼畑農耕、海洋文化など多様な生活様式を育み、独自の言語や祭礼、音楽を継承してきた。一方、植民地支配や同化政策の影響で文化や言語の継承が困難となり、近年は権利回復や伝統文化の復興が進められている。
「都市残酷」(作:ワリス・ノカン)
台湾原住民文学の旗手が描く、都市化された台湾の悲しみ。
原住民の誇らしい魂が、都市化の波に呑まれ悲鳴を上げる台湾の現実。
真の台湾を知るには避けて通ることのできない作品集の世界初演に挑む。
いくつもの短編を積み重ね、都市と国家に抑圧された人々の叫びが、幾重にも折り重なる。
植民地主義の加害-被害の国家から思索する現代、「新-植民地主義の時代」への抵抗の物語。
この度、サブテレニアン20周年メモリアルプログラムの一つとして、台湾原住民文学『都市残酷』(著:ワリス・ノカン、訳:下村作次郎)を上演いたします。
台湾には古くから島に暮らしてきた多様な原住民族がおり、それぞれが独自の生活様式や文化、言語を育み、今日まで継承してきました。
1980年代以降の民主化運動の中で、原住民族自身の視点から書かれた文学が数多く生まれ、その暮らしや文化、差別や社会との葛藤が描かれるようになります。
本公演では、その代表的な作家の一人であるワリス・ノカン氏の短編作品集『都市残酷』の世界初演に挑みます。
作品には原住民族の文化や精神世界が豊かに描かれる一方、日本統治時代が残した歴史の影も色濃く映し出されています。私たちは、この作品を演劇的な身体表現と音楽による多層的な構成を通して舞台化します。
台湾と日本の歴史的な関係を見つめ直すだけでなく、これからの世界をともに考えるための作品として、多くの方にご覧いただければ幸いです。
ぜひサブテレニアンで、台湾原住民文学との出会いをご体験ください。
『空に血がまじると眼の底に虹がかかる ―― 街の星座「Machiza≠Labo Vol.4 “都市残酷” 」によせて』 平岡希望(劇評家/ライター) 「この籠には鳥を一羽入れたっていいわけだ。それをこうして空っぽにしとく。万一、僕がその気になったら、たとえば茶色の鶫(つぐみ)とか、ぴょいぴょい跳び回るおめかし屋の鷽(うそ)とか、そのほかフランス中にいろいろいる鳥のどれかが、 奴隷の境遇に落ち込んでしまうんだ。ところが、僕のお蔭で、そのうちの少なくとも一羽だけは自由の身でいられるんだ。つまり、そういうことになるんだ」[1] 「時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。」[2] 籠の鳥を見るように、人を値踏みする視線。舞台上手と下手の暗がりには、開場からすでに俳優たちが3人ずつ鎮座していた。天井から垂れ下がる、綯われる前のゆるく波打つ糸みたいなカーテン越しに彼らの表情を窺うことはできない。しかし、横顔の傾きから俯きがちであることは見てとれて、まばゆい客電に手庇(てびさし)しながら目を凝らす。そんな自分がふと醜悪に思えた。この物見高さは張見世の花魁を冷やかす町人、あるいは “知的” 好奇心ゆえに学術人類館[3]へ押し寄せた群衆とどこが違うのか? 開演前の無聊を慰める “モノ” として、あたかも3体セットの人形みたいに詰め込まれていた6名が、がらんどうの舞台中央へ一斉に飛び出してくる。そのさまは、ホームの両側へ同時に到着した電車から駆け出し、そして交錯する乗客のようだ[4]。しばらく回遊した彼らの半数は中央に留まり、もう半数は席へ戻る。律儀な子供が、遊びに使わない人形を “おうち” へ片づけるみたいに。しかし彼らは目の端で動き出す。下手奥の席でホルンを構えたのは、まるも[5]だった。一つ空けて下手前に座ったサテライト☆ちぐさは、ハーモニカのようなものを口に当てている。そして上手奥の椅子がカホン[6]だと気づいたのは、青木友菜が上体を屈めてその打面に手を添えたからだ。 重ねられた短音が原始霧[7]のごとく広がり始めたとき、すでに舞台中央では一つの “継承” が果たされていた。小河タイラ演じるユタス[8]から子ども(=佐倉ゆい花)へ。「本当の猟人なら、番刀で勇ましくイノシシの喉を突き刺すものだぞ。そこはイノシシの急所だからな。」[9]という教えとともに「イノシシの牙をつないだ首飾り」[10]が手渡されたその後で、イノシシの急襲を告げたのは語り手(=宇都出一真)だ。合間合間で地の文を挟んでいた彼と、小河と、佐倉は一塊となって蠢いていた。互いに絡めた肘の先、それぞれの左手首ではブレスレットが光を放っており[11]、獣声の掛け合いじみた演奏に、ユタス(=小河)が倒れ伏した鈍い音が加わる。 …という『最初の狩猟』の結末は措くとして、「街の星座」主宰の豊川涼太による演出・脚色版『都市残酷』は、 1.『最初の狩猟』 2.『失われたジグソーパズル』 3.『この、もの悲しい雨』 4.『父_Part 1』 5.『女王の蔑視』 6.『タロコ風雲録』 7.『父_Part 2』 オムニバス形式の原作短編集から精選された6篇[12]を忠実に描きつつも、“全曲版” とはまた異なる統一性、起承転結を備えた組曲[13]のようなものだった。もちろん、原作をこの順序でただ読んだからといって、その感興は得られないだろう。そこには、俳優という紐帯が欠けているからだ。 『最初の狩猟』から『失われたジグソーパズル』へ。物語とともに俳優も入れかわり、語り手(原作中の「僕」)は青木にバトンタッチされた。しかし、“上半身裸で皇民建国体操に勤しむ老人”[14]として下手から現れたのは佐倉で、私たちは、不連続なはずのものに連続性を見出す。イノシシの牙の首飾りを継いだ子どもが、青年から壮年を経て、自らもまたユタス(祖父)と呼ばれる世代になったかのような。そして若き語り手(=青木)に、同郷のある音楽家の半生を語って聞かせた、おそらく老齢の男(=まるも)が “若返って”、今度は中高生を演じる。『この、もの悲しい雨』の「チェン バオルオ(陳 保羅)」を。彼が姉(=サテライト☆ちぐさ)に贈ろうとした花も、ジグソーパズルの一片も、イノシシの牙の首飾りも、舞台上部から、蜘蛛が垂らした救いの糸めいたその先のフックに吊り下げられた[15]。モズの “はやにえ” じみたそれらが、そして約75分間出ずっぱりの俳優の身体が、それまでの悲劇を「忘れるな」と迫る。 「完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ、そして人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。棺桶に片足を突っ込んだときには、じたばしてみたところで始まらない、が水に流すのもいけない、何もかも逐一報告することだ、人間どもの中に見つけだした悪辣きわまる一面を、でなくちゃ死んでも死にきれるものじゃない。それが果たせれば、一生はむだじゃなかったというものだ。」[16] 「書くことは証言することであり、一人の人間の記憶よりも永く残る。自分自身と対話し、世界にも伝えることが、私たちの義務だ。私たちが生き残ったことには理由がある。それは喪失の物語、生き抜く強さの物語、そして希望の物語を語るためだ」[17] 原作者であるワリス・ノカン氏もまた、タイヤル族の歴史を登場人物たちに仮託することで「喪失の物語、生き抜く強さの物語、そして希望の物語」を紡いでいるのだろう。そうした “無名” の人たちの声なき声は、舞台上ではむしろ、身体が発する音に込められていた。原初的かつ具象的なカホンやレインスティック[18]の音、唇と息に根ざした管楽器の音、そして呼吸音そのものに足音、ボディパーカッション。音楽以前、言葉以前の非言語音は、有史以来繰り返されてきたであろう “陳腐” なまでの悲惨に、骨の軋みを蘇らせたのではないか。 「星は、神話では、射られた太陽が空にまいた血だということになっている。傷つけられた太陽がいまの月だが、まばたく星からはどんな啓示も得ることができなかった。」[19] 墨色の壁をなめる青い光を背に浴びながら、消えたヤパ[20]を探す息子(=宇都出)がこう述べたとき、舞台上にも星があった。物語の断片とともに、あちらこちらに吊られたそれらは俳優たちが身に着けていた光る腕輪(とペンダント)で、すでに小河、まるも、サテライト☆ちぐさは舞台から去った。彼らの体温が残るそれらは星であり、“空にまかれた血” なのだろう。 「私は兄弟が体に大きな穴をあけ、血を流しつくし、その血がかつて汗を流した大地に流れているのを見た。」[21] ここで時間を少し巻き戻せば、『タロコ風雲録』の「タイヤル族の頭目ハル・ナウイ」(=佐倉)は、敵に頭を垂れる前にかくのごとく語り、 「撤退! タイヤル族の皆はどこに逃げればいいのか。前には銃、うしろには砲弾! 〔……〕 撤退! もはや退く道はない。」[22] 互いに腕を絡め合い、蠢く一塊の肉と化した6人の俳優から引き絞られた「撤退」の叫びは、 「虹がない、虹の橋がないなんてことがあるか、お前たちは目が見えないのか、心の目も見えないのか、見えなくなった心に、 どうして虹の橋が見える。わしは毎日、虹の橋を見ておる。わしらの部落の上空にかかっていて、 時には凄惨な声がする。パイペイノフ(大安溪)の河原の周りから起こり、毎日朝晩、聞こえる、 祖霊の声が呼んでいるのが聞こえるんだ。」[23] 「虹の橋」の向こうから響く「凄惨な」「祖霊の声」として、現代の私たちの耳を聾したのではないか。 「お前が自分だけで何かを考えたつもりになっているすべてのすべてのすべてこそは、おお、いいかな、本来、お前に踏まれる一粒の砂の苦悩、お前に食われるこの俺の悲哀と苦悩のなかの『俺達全体の思索』によってお前のなかに絶えず目に見えず積み上げに積み上げられたところの『絶えずより巨大な苦悩と悲哀へ向いつづけに向いつづける大いなる集積の集積』にほかならぬことを、いくら無自覚なお前とてもお前のなかの何処かの暗い遠い隅でちらとでも思い及ぼしてくれ。」[24] 〈了〉 注 タイトルは、吉本隆明「告知する歌」蜂飼耳/編『吉本隆明詩集』岩波文庫,p.183による。 なお、引用したURLの最終閲覧日はすべて2026年9月5日である。 [1]ジュール・ルナール/著,岸田国士/訳『博物誌』新潮文庫,p.168 [2]太田記念美術館『葛飾応為 吉原格子先之図』https://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05 [3]原作者ワリス・ノカン氏の出自であるタイヤル族も、大正2年の明治記念拓殖博覧会(大阪・天王寺)などで、展示の一環として衆人環視の生活を強いられた(cf., 山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』風響社,pp.70~84および口絵3) [4]このイメージは、開場より舞台正面の壁に投影されていた「都市残酷」のロゴ、および電車や道路、行き交う通行人といった往来のモチーフ溢れる(モノクロの)映像から影響を受けている。なお、上演冒頭では台湾原住民族の簡単な歴史的背景が、その後は各短編や章のタイトルが適宜表示された。 [5]本作を演出・脚色した豊川涼太が率いる「街の星座」の俳優。宇都出一真を除く出演者5名は、全て同劇団に所属していた。 cf., https://machinoseiza.wixsite.com/machiza [6]箱型の打楽器で、椅子のように上部へ腰掛け、前面を叩いて演奏する(股に挟むタイプもあるようだが、本作では前者が使われていた)。 [7]19世紀オーストリアの作曲家アントン・ブルックナーが好んだ手法。主に交響曲の冒頭で使用され、小刻みな弦楽合奏が朝霧漂う森のような雰囲気を演出する。 [8]タイヤル語で、祖父母の世代を指す言葉。cf., 『都市残酷』(以下、「原作」と表記)凡例ページ [9]原作,p.17 [10]原作,p.16 [11]たしか、まるもと青木の二人はブレスレットではなく、同趣向の光るペンダントを身に着けていた。 [12]元々の掲載順は、1→6→5→2→3→4→7。『父』については、原作短編の第7章以降(p.280~)を “Part 2”、それ以前を “Part 1” と二分したかたちで上演された。 [13]たとえばイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の『火の鳥』や、バルトーク・ベーラ(1881-1945)の『中国の不思議な役人』のような。バレエ音楽として書かれた前者とパントマイムのための後者は、ともに全曲版と演奏会用の組曲とで印象が異なる。 [14]cf., 原作,p.68 [15]「イノシシの牙の首飾り」は上手前方、「パズルピース」は下手奥寄りに最初から吊られた小箱の中、「バオルオの花」は(たしか)上手奥寄りの、パズルピースと見かけ上は平行なあたりに、それぞれの物語が終わるとともに配された。さらに『女王の蔑視』では、警手だった男(=小河)の「赤・茶・黒とおぼしき石のネックレス」が下手最奥に掛けられ、対する上手最奥の、ひときわ高い位置に当初からずっと吊られていたのは、もう一輪の花だったのだろうか。 [16]ルイ=フェルディナン・セリーヌ/著,生田耕作/訳『夜の果てへの旅 上 新装版』中公文庫,p.33 cf., 大江健三郎『ヒロシマ・ノート』岩波新書,pp.112-113 [17]リフアト・アルアライール/著,斎藤ラミスまや/訳「ガザは問う ―― いつになったら過ぎ去るのか」『ガザの光 ―― 炎の中から届く声』明石書店,p.38 [18]小石など硬い粒が込められた長い筒状の楽器。ゆっくり傾けて演奏することで、雨音を再現できる。 [19]原作,p.284 [20]タイヤル語で「父」の意。cf., 注8 [21]上演台本より。原作では一人称が「わし」になっている(cf., 原作,p.36) [22]原作,p.35 [23]原作,p.241 [24]埴谷雄高『死霊 Ⅲ』講談社文芸文庫,p.87