REVIEW
『コスモス』観劇記/新野守広(ドイツ演劇研究者)
1.開演前
ゴンブローヴィチ原作の小説『コスモス』が舞台化された。構成・演出・美術を担当した赤井康弘はサイマル演劇団を主宰し、ギンズバーグ、島尾敏雄、イヨネスコ、カール・アインシュタイン、ハイナー・ミュラーなどの、いわゆる「知る人ぞ知る」作品を取り上げてきた。2019年にスタートした赤松由美のユニット「コニエレニ」との第一回共作では、ポーランド三大作家(シュルツ、ヴィトキェーヴィッチ、ゴンブローヴィチ)の一人ヴィトキェーヴィッチの『狂人と尼僧』が上演された。二回目となる今回の共作はゴンブローヴィチの『コスモス』である。
『ブルグント公イヴォナ』や『結婚』といった戯曲ではなく、小説を取り上げたのは興味深い。というのも『コスモス』は、通常の小説とはかなり趣きが異なるからだ。ゴンブローヴィチ自身、あるインタビューで次のように言っている。
「(…‥)『コスモス』の主題は、現実を構成するためのある意識の努力だ。その現実は、それが形成されるにつれて壊れて行く。固着したような現実を描くのは、それこそ人為的だし、恣意的なことだ。現実のイマージュは、押しよせ、そして過ぎさって行く黒い波だ。(…‥)中心のテーマは、現実を構成する主体の努力ということだ。」(工藤幸雄「異端のポーランド文学」より。恒文社『東欧の文学 コスモス』所収)。
実際『コスモス』は、作家と読者が「現実を構成するためのある意識の努力」を共有することで作品世界が立ちあがる稀有な小説であると思う。この小説は「私」の視点から語られている。友人と一緒に夏休みの間勉強のために部屋を借りた「私」は、周囲の対象のなかから、首つりになったスズメ、天井の矢印、轅、湯わかし、女性たちの唇などの細部に着目し、相互の連関を見出す努力を続ける。「私」の努力を読む読者は、小説の世界を思い描こうとする構成への意志において「私」と重なり合ううちに、未知の何かが明らかになりつつあるという瞬間を幾度も体験する。こうして、場所も時代も異なる作家といわば時空間を共有しながら、読者は「私」の探究と発見に喜びを覚える。小説という虚構に主体的に参加しつつ鼓舞される貴重な時間が持続する。
今回嬉しかったのは、小説『コスモス』のこのような特徴が舞台にふさわしい形で感じられたところにあった。とはいえ『コスモス』以外のテキストもコラージュされているので、全体の構造はつかみがたい。手探り状態での観劇には集中力が必要だった。
2.開演後
開演すると、それぞれの配役名が書かれた名札を胸にぶら下げた五人の俳優が登場する。「夫人」(赤松由美)、「カタシア」(葉月結子)、「ヴィトルト」(阿目虎南)、「青年」(竹岡直紀)、「レオン」(永守輝如)であるが、「ヴィトルト」は作家ヴィトルト・ゴンブローヴィチのことで、小説の語り手である「私」として登場しているようだ。一方、「青年」は何者なのだろう。
サティのピアノ曲「グノシエンヌ」が流れると、「青年」が「女がいる。(…)」という台詞を語り出す。この後、サティが流れるたびに「女がいる。(…)」が語られるが、そのたびに語る俳優は変わり、「(…)」の内容も変わる。観劇後に知ったが、これはハンガリーの小説家エステルハージ・ペーテルの小説『女がいる』からの引用であるという(『女がいる』は「女がいる。(…)」で始まる97章で構成された小説)。
冒頭では、「女がいる。(…)」が終わると、「カタシア」が「いらっしゃいませ」と語り出す。そう、『コスモス』は、友人フクスと一緒に夏休みの間部屋を借りた「私」の滞在先での経験を描いた小説だ。小説には大家の主人レオン、その妻クルカ、彼女の姪で事故の怪我の跡が唇に残るカタシア、レオンとクルカの娘レナ、その夫ルドヴィクが登場するのだが、名札に書かれた配役と一対一に対応する舞台上の俳優はおもに「レオン」、「夫人」(=クルカ)、「カタシア」だろうか。
いずれにせよ、五人の俳優たちは小説『コスモス』の登場人物の言葉だけを発語しているわけではなさそうだ。後半では中原中也の『老いたる者をして』やベケットの『名づけえぬもの』が引用され、俳優のモノローグとして語られる。
『名づけえぬもの』が挿入的に語られる場面は、原作では登場人物全員がピクニックに出かけた山小屋の場面である。主人レオンはこの山小屋で27年前に不倫した。一度限りの不倫の成功を心の支えに実直な銀行員の父親を27年間演じ続けてきたレオンは、今すべてをひっくり返すべく、家族、同居人、知人はもとより、山小屋に来る途中で偶然出会った見知らぬ僧も引き連れて山小屋に乗り込み、過去を告白して、良き父かつ夫といういわば仮面を脱ぎ捨てる、というのが小説のあらすじである。今回の舞台ではあらすじの描写はほとんどなかったため、あらすじ的な情報は客席にほとんど伝わらなかったと思うが、そうした情報がなくても、「ベルグ、ベルグム、ベンベルグ、(…)」と謎の言葉を発しながら、27年前の秘密を自ら暴露する「レオン」の演技は見ごたえがあった。
ここまで車椅子に座って演じ続けてきた「レオン」は、両足で立ちあがり、大柄の体格を見せつつ、不倫を告白した。実直な父かつ夫という役柄をついに放棄したこの男は、ようやく自分に目覚めて崩壊したのかもしれない。
上演中舞台後方にはつねにポーランド語が投影されており、単語が映し出されるたびに上から下へ流れ落ちるように映像化されている。流れ落ちる単語の群れは「レオン」の崩壊を表しているように思えた。
3.俳優たち
五人の俳優は、外れたイントネーションや奇妙なアクセントで文章や単語を発語しながら、ゆっくり動く。五人の動作と発声には独特のクセがあり、せりふ劇の俳優の動きではない。一人ひとりが独自の動きを極めているとともに、総体としても一つのまとまりをなし、重心の上下動や左右の動きで五人の所作がリンクすることも多い。また、指先の動きにいたるまで、五人の細かい身体の動きが相互に共振する瞬間も見逃せない。こうした俳優たちの独特な動きの連鎖を目の前にして、観客一人ひとりも、それぞれ「現実を構成するためのある意識の努力」を続けたことだろう。その努力が最終的に一つの意味に収斂することはないが、それゆえに探究と発見の喜びは尽きないと感じた。
こうして1時間強の公演中、小説とは異なる稀有な時間を体験した。

