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​サイマル演劇団

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7日18時以降の回は、俳優の怪我により、上演中止といたしました。

​申し訳ありません。

サイマル演劇団

シュルレアリスム/宣言

原作︎/アンドレ・ブルトン

翻訳︎/巖谷國士(「シュルレアリスム宣言 溶ける魚」岩波書店)

構成・演出・美術/赤井康弘

韓国・富川 富川市民会館(第7回ファンタスティックシアターフェスティバル招聘)

2024年11月29日(金)19時 

東京・サブテレニアン(板橋ビューネ2024/2025参加)

2024年12月5日(木)20時

2024年12月6日(金)15時︎/20時

2024年12月7日(土)13時/18時

2024年12月8日(日)13時/18時

出演/葉月結子 大美穂(イナホノウミ) 永守輝如

料金/一般3500円 学生・障害者割/2000円 サイマル応援チケット10000円

チケット予約/https://stage.corich.jp/stage/341711

お問合せ/info@subterranean.jp 080-4205-1050(赤井)

照明︎/麗乃(あをともして)

音響︎/豊川涼太(街の星座)

衣装/サイマルお針子団

字幕/梅村梨恵

舞台監督︎/大山ドバト

宣伝美術︎/伊東祐輔(おしゃれ紳士)

制作/竹岡直紀(劇団俳優難民組合)

   赤松由美(コニエレニ)

   さたけれいこ(サブテレニアン)

著作権代理︎︎/フランス著作権事務所

企画・製作/赤井康弘

協力︎/岩波書店

主催/サブテレニアン

   サイマル演劇団

上演時間︎/70分

アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」発刊100周年を迎え、アバンギャルドの作品で実績を積むサイマル演劇団・赤井康弘が、舞台化に臨む。
「我の御身が痙攣する複数性」を瞠目に、夢か現か、身体と精神の境界で、現実が曖昧に溶けてゆく。

100年前、世界を揺るがす「宣言」が発表された。
戦間期に発表されたそれは、100年後の現在にでも影響がある。

この舞台は事件になるのか? 新たな「宣言」か?

​世界は一編の詩に近づくべくできている

​【サイマル演劇団及び赤井康弘プロフィール】
演出家・赤井康弘のほぼ一人劇団。1995年、仙台で旗揚げ。東京公演や東北地方でのツアーを行う。
2000年、東京に拠点を移す。2006年、サブテレニアンを開館。以降、古典作品を上演。俳優の身体性を軸に、物語から距離を持ち、そこから離れようとする身体と近づいてしまう精神とのせめぎ合いを、硬質な身体と独特の発話で、主に不条理劇、前衛劇として上演。
代表作に、円環運動を主とした「授業」(E・イヨネスコ)、シュルレアリスムの代表的小説を扱った「ナジャ/狂った女たち」(A・ブルトン)、ダダイズムと表現主義の境目に屹立した「ベビュカン」(C・アインシュタイン)、引用で溢れたキメラのようなテキストで、社会批判に満ちた「フェルディドゥルケ」(W・ゴンブローヴィッチ)等。
2011年、利賀演劇人コンクール参加。2017年には韓国・礼唐国際演劇祭に招聘される。2022年、2024年、ポーランド・国際ゴンブローヴィッチ演劇祭に招聘。2022年、準グランプリを獲得。
その他、サブテレニアンではプロデューサー及びキュレーターとしても活動。古典だらけの演劇祭「板橋ビューネ」や、パフォーマンス・アートを主に扱う「Marginal Man」等を企画、製作。海外の演劇祭の参加劇団のキュレーションも行う。

『震える右手へ添えた左手には、「野をひらく鍵」が握られている ― サイマル演劇団「シ ュルレアリスム/宣言」東京公演に寄せて』​(劇評家/ライター 平岡希望)


カチッ、カチッ...と刻まれるメトロノームの無機質な音と、自分の鼓動とのずれを感じな がら舞台下手を見る。空っぽの車椅子の肘掛けでは⻘白い光が憩い、その前を横切った葉月 結子は白い傘を持っていた。まっすぐ上手前まで向かった彼女がおもむろに、丈の短い、日 傘と思しきそれを開いたのと同じ頃、上手奥から少し中央へ寄ったあたりに立った永守輝 如を、オレンジがかったライトが染める。彼の全身はその数瞬前から痙攣していた。だらり と下げた両腕、こちらに向かってゆるく開いた右掌はかすかに震えており、
「スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。」 「サドはサディズムにおいてシュルレアリストである。」 (A.ブルトン・著,巖谷國士・訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫,p.46 より。 以降の引用はページ数のみを示し、台詞の場合は、上演台本に準拠した表記とする。)
と、“過去のシュルレアリスト” たちを列挙し始めるが、
「シャトーブリヤンはエグゾディスムにおいてシュルレアリストである。」(同)
の「エグゾ」あたりからは、痙攣の波に溺れるがごとく、発話もスムーズさを失う。その時、 薄闇の中でゆっくりと蠢いていた葉月演じる【女】が、両手で持った傘を勢いよく振り下ろ した。
永守演じる【男】は、上演時間約七十分の間、絶えず痙攣に抗いながら言葉を発していく ことになるのだが、その背中を支えるかのように、弦楽合奏の、⻑くなめらかな旋律が流れ る。それはロンドン交響楽団による “ヘンデルのラルゴ” で、J.S.バッハの《マタイ受難曲》 においても、受難を宿命づけられた “イエス・キリスト” は、常にたゆたうような弦楽合奏 を伴う。【男】もまた、ある種の刑に処されているのかも知れない、語り終えるや否やライ トは消え、ベールのように降り注いでいた管楽器の音も断たれるが、なお震え続けている。
【男】が痙攣しながら語り、【女】が傘を抱いていたその間にも車椅子の前では大美穂が 身体をゆっくりと揺らめかせていた。そして一転明るくなった下手で、オレンジのスカーフ、 そしてオレンジのレンズを輝かせた彼女は、右手で眼鏡の “つる” をつまみ、前傾気味にし ゃがみながら、
「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。」(p.87)
と語り始める。“ラルゴ” の余韻を叩き切るように、反復的なピアノと弦楽の旋律が、大演 じる【B】の言葉に随行するがそれはスティーヴ・ライヒの《Octet》で、
「けがれた夜、花々の夜、喘ぎの夜、酔わせる夜、音のない夜よ、」(p.114)
を、【B】は「けがれたよるはなばなのよるあえ」「ぎのよるよわせるよるおと」「のないよる よ、」といった具合に、粘性の高い川が、時折うねるかのように発話した。
「狂人たちが監禁されるのは法律上とがめられるべき二、三の行為のせいにすぎず、そうい う行為さえおかさなければ、彼らの自由は危険にさらされるはずもないだろう。」(p.10)
という台詞は【男】のものだが、【B】もまた、痙攣する【男】や傘に執着する【女】と共に “狂人” なのかも知れない。しかし、彼らを見つめる私たちもまた例外ではない、【女】の傘 が風を孕み、音を生んだ。
上演前から止むことなく鳴り続けるメトロノームのごとく、【B】は自動記述による小話 集『溶ける魚』の、【男】は『溶ける魚』の “序文” として書かれた『シュルレアリスム宣 言』の言葉を交互に語る。それに伴って音楽も照明も切り替わっていくが、その間、【女】 は一言も喋らず時に傘を振り回し、時に愛撫しながら、徐々に舞台中央へにじり寄っていた。 そして、ギュゥ、という擦過音を立てながら抱き、そっと置いた傘はぎこちない楕円に歪ん でいて、“史上初のシュルレアリスム映画” と称される『貝殻と僧侶』の、フラスコから黑 い液体を注がれた貝殻みたいだ。
【女】が、慄いたように “貝殻” を見つめる一瞬にも、スカーフを首元まで下ろした【B】 は、
「むかしむかし、ある堤防の上に、一羽の七面鳥がおりました。」(p.170)
と語りながら車椅子の背後を決然と進み、ある境界を冒した警告のごとく、《Octet》の中に “ラルゴ” が混ざり、歪む。バタンッ、という鈍い音は【女】の身体が地面に “墜落” した音 で、【B】は、【男】の震える右腕に自らの左腕を重ねる。【男】はなす術もなくただ身をよじ らせ、
「私はいつも、夜、どこかの森で、ひとりの美しい裸の女と出くわすことを、信じがたいほ どに願ってきた。(...)もしもそうなったら、すべてはぴたりと停止してしまったことだろ

う。(...)私はなによりも、このように機転がまるで利かなくなりそうな状況が大好きだ。 きっと逃げ出す機転すら利かなくなっただろう。」 (A.ブルトン・著,巖谷國士・訳『ナジャ』岩波文庫,pp.45-46)
という一節を私が思い出している間にも、【B】は、彼を起点にゆっくりと公転しながら語り 続ける。
「神父はムール貝のなかで歌い、ムール貝は岩のなかで歌い、岩は海のなかで歌い、海は海 のなかで歌っていた。」(p.170)
の一言が、再び指さした貝殻=傘の傍らに【女】の姿はすでにない、彼女は這い上がるよう に車椅子へと乗り込んでいた。
語り終えるや否や【B】は【男】から飛びすさり、【女】はだらんと横たえていた頭部を起 こす。下手の本棚が照らし出され、その反射光を燐光のごとく右頬に受けながら口を開いた 【女】は、
「百科辞典。ある種の連想形式のすぐれた現実性やシュル心のメカニズムを決定的に破産 させ、レアリスムはそれまでおろされてそかにきた夢の全能や、思考の無欲無私な活動など への頼信におく基礎を。他のあらゆる人生の主要な諸問題の解決においてめざすことをそ れらにかわるとって。」
と、抑揚も、発声も、感情も調節できていない人形のように話し、それは『宣言』の一節(p.46) をなぞりながらも、明らかに壊れている。
「美は、ぎくしゃくした動きの連続から成るものだ。その動きの多くはほとんど重要ではな いが、それらがいつかひとつの〈ぎくしゃくした動き〉をひきおこし、それこそが重要なも のになるということを私たちは知っている。」(『ナジャ』pp.189-190)
に添えられた巖谷國士氏の訳注によれば、〈ぎくしゃくした動き〉の原語は saccade だ。そ の言葉が私の記憶を揺さぶるのは、眼球運動においても「サッケード」という急速な視線の 動きがあるからで、たしか心理学実験演習の一環として、測定したことがあった。
交互に照らされ、語る【男】と【B】を追う視線の動きこそまさにサッケードで、そこに 加わった【女】とで描かれる三角形は、観客の目を痙攣のごとく錯綜させる。
「私にとってはるかに重大に思われるのは、すでにじゅうぶんおわかりいただいておるよ

うに、シュルレアリスムの行動への適用ということである。」(p.78)
とブルトンは言っているが、美もまたそうではないか。もちろん、演出家、俳優、音響、照 明...が作り出す部分も多くを占めるが、自分の感じる美は、最終的には自分で作るしかない のではないか。目を、全身を “痙攣” させながら。
二度、三度と話すたびに調律され始めた【女】の語りを、私は “直って/治って” きたと 思ったがそれは私(を含む観客)がすでにある不自由の中にいるからかも知れない、
「『頭足類は四足獣よりも、進化をきらう理由をいっそう多くもっている』と。マックス・ モリーズ」(p.70)
において、「いっそう多く持っている」「とマ」...と言いながら【女】は両の手で肘掛けを掴 む。そして「クス」「クス」ッ...と力を込めて立ち上がろうとするが彼女はすでに立ち上が れない、言い添えた「モリーズ」に力はなかった。
【男】は、いや増す痙攣のために時折倒れこみそうで、傘を拾った【B】は、それで何か を掬う所作をしたり、杖のように突いたりしている。そもそも彼女はオレンジのレンズ越し にしか世界を捉えられず、三人は共に不自由だ。しかし、
「現代の人間はもともと自由ではない。(...)外から与えられた自由だとか、自由な国や社 会だとかはまやかしである。自由はむしろ不自由であることの自覚から始まる。不自由を自 覚して自由を求める行動こそが、今日では自由の証になる。」(巖谷國士『シュルレアリスム と「自由」』Galerie LIBRAIRIE6)
のであれば、三人は、
「パリの各所の壁には、白い覆面をし、左の手には野をひらく鍵をもつ、ひとりの男の人相 書きがはりめぐされていた。その男、それは、私だったのである。」(p.200)
と【B】が語るところの、「野をひらく鍵」を左手に持っているのだろう(cf.,p.264 訳注「二 〇〇1」)。
そして、倒れ込んでいた【男】は不意に立ち上がり、痙攣など微塵も感じさせない足取り で下手袖へ消え、【B】は掲げていた傘を下ろし眼鏡を外す。そして【女】も静かに立ち上が り、一歩、二歩と車椅子のフットレストを跨ぐ。戻って来た【男】は黑いジャケットを着て おり、

「ごらんになれますか、ここにおられる紳士淑女のみなさんのむこうに、ほらサンルイ島が 見えるでしょう?」(p.182)
と “ぬけぬけと” 応じるが、彼はもはや【男】ではなく【サタン】で、 「窓はひらかれています。花々の香気がただよいます。」(同)
と口火を切った【女】は【エレーヌ】であり【リュシー】だった。持っていた傘を石突きか ら垂直に落とし、
「きみだとわかっていたよ、ここでのはげしい快楽のまにまに。」(同)
と【リュシー】を “告発” した【B】もまた【マルク】となっていて、『溶ける魚』に収録さ れた会話劇(pp.181-186)が、突如、始まっていた。しかし、彼らはこれまでの “縛め” か ら解き放たれたのだろうか、
「そして、ほらあそこに、観客席の五列目の後ろに、売淫にふけっている真っ⻘なひとりの 女が見えます。おかしなことに、あのひと、翼があるんです。」(p.184)
という【リュシー】の「真っ⻘な」のあたりで、車椅子に掛けていた【サタン】は、震える 右手に、これまで【男】がそうしてきたように左手を添えた。そして立ち上がると、ジャケ ットの内ポケットから二つ折りのカードを取り出し、
「淑女ならびに紳士のみなさま、ただいまお目にかける光栄に浴しました一幕は、わたくし めの作にございます。」(同)
と語り始めて、ここにおける「一幕」は、本来であればこの会話劇のみのことを指している が、サイマル演劇団『シュルレアリスム/宣言』においては、ここまでの全てがその言葉に 包含されうる。【サタン】による挨拶は、『赤いスイートピー』(kuni 氏によるカバー版)と “解剖台上のミシンと蝙蝠傘”(cf., ロートレアモン『マルドロールの歌』)のごとく出会いな がらも、
「けれども、わたくしはいまから、わずかながら、よりいっそう理屈にかなわない見世物の 数々に、皆さまをお招きする光栄にあずかることでしょう、というのは、わたくしは、永遠 なるものを、唯一無二のうつろいやすいポエジーに、つまり、おわかりでしょうか、唯一無

二のうつろいやすいポエジーに仕立て上げることに、絶望しているわけではないのです!」
と結ばれ、「唯一無二のうつろいやすいポエジー」に「演劇」を代入すれば、それは演出家・ 赤井康弘の “宣言” のようにも響いた。
哄笑を後に【サタン】は去る。残された二人は、【マルク】と【エレーヌ/リュシー】で もなければ【B】と【女】とも少し違っていた。二人によって語られた二つの定義、
「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋なオートマティズムであり、それにもとづいて、 口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだて る。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいから もはなれた思考の書きとり。」(p.46)
「百科辞典。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐ れた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆ る心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとっ てかわることをめざす。」(同)
は、どちらも二度目だが、こんなにも決然と “宣言” されはしなかった。そして、車椅子に 乗った “女” と、彼女を押していく “B” の背中が闇に溶けていく。
「舞台上には限界があるが、永遠に歩き続けるんじゃないか?と感じさせなければならな い。」
と、赤井は稽古の際に俳優の足運び、その一歩に対して指摘し、
「(...)独房のなかでも、銃殺刑執行隊の前でも、自分を自由だと感じることはできます。で もその自由をつくりだすのは、人の耐えている受難そのものじゃありません。自由とは永遠 に続く解放のことです、そうあってほしいものです。」(『ナジャ』p.79)
と、ブルトンはその日出会ったばかりのナジャに語った。 闇に溶けた背中は、自由の中を永遠に歩き続けることができるのだろうか。

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