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​サイマル演劇団

サイマル演劇団+コニエレニ「フェルディドゥルケ」出演者募集

2024年7月に、ポーランド出身の劇作家・小説家、W・ゴンブロヴィッチの小説「フェルディドゥルケ」を舞台化します。ゴンブロヴィッチ以外に複数の作家のテクストを組み込んだ作品になる予定です。それにあたって、出演者を若干名募集します。

2024年7月4日〜7月14日(全13ステージ予定)
劇場/サブテレニアン

原作/W・ゴンブロヴィッチ
構成・演出・美術/赤井康弘

出演/赤松由美(コニエレニ)、葉月結子 他

稽古日程
5月下旬から、サブテレニアンおよび板橋区内の公共施設。平日夜間、週末昼間から。25回〜30回程度。

応募条件/18歳以上。舞台出演の経験が1回以上ある方。

応募方法/タイトルを「フェルディドゥルケ出演希望」とし、名前、年齢、(あれば)所属団体、芸歴、連絡先、バストアップの写真を添付の上、info@subterranean.jpまでメールしてください。

出演料/固定+キャッシュバック制

選考/【一次】書類審査【二次】テキストの音読、面談。2月前半を予定。


応募締め切り/1月31日(水)

ウィトルト・ゴンブロヴィッチ(1904−1969)現在のシフィェンティクシシュ県マウォシツェ生まれ。1933年処女作『成熟期の日記』を、37年には長編『フェルディドゥルケ』を発表。 1939年、旅客船「フロブリ号」にて外遊するも、ブエノスアイレス到着の7日後に祖国ポーランドにナチス軍が侵攻し、以後アルゼンチンで亡命生活をおくる。1960年『ポルノグラフィア』、1960年『コスモス』発表。1963年、ドイツに移住。1969年、フランスで死去。


【サイマル演劇団および赤井康弘のプロフィール】演出家・赤井康弘のほぼ一人劇団。1995年、仙台で旗揚げ。2000年、東京に拠点を移す。2006年、サブテレニアンをオープン。以降、古典作品を上演。俳優の身体性をを軸に、物語から距離を持ち、そこから離れようとする身体と近づいてしまう精神とのせめぎ合いを、硬質な身体と独特の発話で、主に不条理劇、前衛劇として上演。代表作に、円環運動を主とした「授業」、シュルレアリスムの代表作を扱った「ナジャ/狂った女たち」、感染症の蔓延する都市を描いた「Peste≠Peste」等。2011年、利賀演劇人コンクール参加。2017年、韓国・礼唐国際舞台芸術祭に招聘。2022年、サイマル演劇団+コニエレニとしてポーランド・国際ゴンブロヴィッチフェスティバルに招聘。準グランプリを獲得。その他、サブテレニアンではプロデューサー及びキュレーターとして活動。古典だらけの演劇祭「板橋ビューネ」や、パフォーマンスアートを主に扱う「Marginal Man」等を企画、製作。海外の演劇祭の参加劇団のキュレーションも行う。


【コニエレニ及び赤松由美のプロフィール】東京都八丈島出身。1999年、劇団唐組入団。以降、2018年に退団するまで全公演に出演。唐十郎に師事。ポーランドの映画監督イエジー・スコリモフスキの映画に感銘を受け、コニエレニを設立。2022年、サイマル演劇団+コニエレニ「コスモス」に夫人役で出演。コニエレニは赤松由美が代表理事を務め、能楽師、日本画家、ピアニストからなる芸術団体。2022年にポーランド・ラドムで初の海外公演を主催し、2023年には八丈島での「小鼓体験会 小鼓の夕べ」、朗読劇「父と暮せば」、「叫び」のワークショップ「ザ・シャウト八丈」、高知県での朗読劇「モネをさがして」等を開催し、好評を博す。2022年、一般社団法人コニエレニ設立。

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サイマル演劇団2都市ツアー

「青い鳥」

原作/モーリス・メーテルリンク

構成・演出・美術/赤井康弘

出演/葉月結子
   赤松由美(コニエレニ)

   渡邊清楓

         大美穂(イナホノウミ)

​✳︎竹岡直紀は体調不良のため降板しました。

東京公演

 

2023.11.30thu 20:00✳︎1

2023.12.01fri 15:00/20:00✳︎2

2023.12.02sat 15:00/20:00✳︎3

2023.12.03sun 11:00/15:00

会場/サブテレニアン(東京都板橋区氷川町46-4 BF)

福島公演

 

2023.12.09sat 17:00✳︎4

2023.12.10sun 13:00

会場/ATELIERブリコラージュ(福島市置賜町8-30 カスタムビル2F)

開場は開演の30分前

アフタートークあり。

✴︎1 伊藤全記(7度主宰、演出家)

✴︎2 穴澤万里子(明治学院大学教授、メーテルリンク研究)

✴︎3 新野守広(立教大学教授、ドイツ演劇研究)

✴︎4 大信ペリカン(シア・トリエ代表、劇作家・演出家)

照明/麗乃(あをともして)[東京公演]

   麿由佳里[福島公演]

音響/豊川涼太(街の星座)[東京公演]

   大信ペリカン[福島公演]

衣装/サイマルお針子団

舞台監督/大山ドバト

宣伝美術/伊東祐輔(おしゃれ紳士)

制作/さたけれいこ

   サイマル制作団

協力/コニエレニ

   劇団俳優難民組合

   山田尚古

   シア・トリエ

企画・製作/赤井康弘

主催/サイマル演劇団

   サブテレニアン

料金/東京公演 一般3500円 学生2000円

   福島公演 一般3000円 学生2000円
   (共通)サイマル応援チケット10000円
   ✴︎サイマル演劇団の発展を願う方のための、ちょっと大人の  
    チケットです。

チケット予約/

[東京公演]https://stage.corich.jp/stage/280696

[福島公演]https://stage.corich.jp/stage/280699

問い合わせ/info@subterranean.jp

                  080-4205-1050(赤井)

これは、だれの「青い鳥」なのか?

メーテルリンクの名作「青い鳥」を、「贈与」をテーマに、数多のテクストを組み込みながら上演する。
劇場は特権的な空間である。演る者も見る者も特権的である。
劇場に集うものが、社会にいかなるものを還元できるかに焦点を当て、物語の消費ではない演劇を生み出していく。


モーリス・メーテルリンク(1862-1949)
ベルギー生まれのフランス語詩人、劇作家。最初、写実的な短編小説を発表するが、パリに滞在し、神秘主義の道を歩むようになった。代表作に詩集「温室」(89)、「盲人たち」(91)、「ペレアスとメリザンド」(92)等。20世紀に入ると作風が一変し、写実的なる一方、愛と希望や自然界の神秘を探る主題へと変化した。1908年に「青い鳥」を発表。1911年、ノーベル文学賞受賞。

 

【サイマル演劇団及び赤井康弘プロフィール】
演出家・赤井康弘のほぼ一人劇団。1995年、仙台で旗揚げ。東京公演や東北地方でのツアーを行う。
2000年、東京に拠点を移す。2006年、サブテレニアンを開館。以降、古典作品を上演。俳優の身体性を軸に、物語から距離を持ち、そこから離れようとする身体と近づいてしまう精神とのせめぎ合いを、硬質な身体と独特の発話で、主に不条理劇、前衛劇として上演。
代表作に、円環運動を主とした「授業」(E・イヨネスコ)、シュルレアリスムの代表的小説を扱った「ナジャ/狂った女たち」(A・ブルトン)、ダダイズムと表現主義の境目に屹立した「ベビュカン」(C・アインシュタイン)、感染症の蔓延する都市を描いた「Peste≠Peste」(E・イヨネスコ)等。
2011年、利賀演劇人コンクール参加。2017年、韓国・礼唐国際演劇祭に招聘。2022年、ポーランド・国際ゴンブロヴィッチフェスティバルに招聘。準グランプリを獲得。
その他、サブテレニアンではプロデューサー及びキュレーターとしても活動。古典だらけの演劇祭「板橋ビューネ」や、パフォーマンス・アートを主に扱う「Marginal Man」等を企画、製作。海外の演劇祭の参加劇団のキュレーションも行う。

青い鳥

これは、だれの「青い鳥」なのか?

全てのセリフは、過去の数多のテクストから引用される。新たに書き起こされたものはない。

それは、俳優にとっても演出家にとっても、他人の言葉であり、現代に生まれた言葉ではない。

その言葉が、俳優の身体を通って、発話される。

あなたは、だれの「青い鳥」を目撃するのか?

​解体された文学から、21世紀の劇場で、21世紀の身体が溢れてくる。

「青い鳥」劇評

​メーテルリンク研究・穴澤万里子

 

赤井版『青い鳥』を観て


 

メーテルリンク研究者として国内外で様々な『青い鳥』を観てきたが、多くの場合はお決まりの、古臭くてお堅い子供向け演劇である。子供向け演劇ならば(だからこそ)もっと想像力を働かせて、メーテルリンクも驚くような世界が作れないものか。子供は大人も考えられないような自由で豊かな発想を持った、実はあなどれない、手ごわい観客ではないのか? 大体、この作品は子供の為、と決めつけるのはいかがなものか? 
と訝しく思っているところに出会ったのが赤井版『青い鳥』であった。アフタートークで赤井氏は「メーテルリンクの『青い鳥』じゃない、と叱られてしまうのではないかと緊張していた」と言われたが、確かにこの作品は、実は長い『青い鳥』の幾つかのシーンのみであり、さらに作家の詩や、旅や夢を感じさせる他の作家の書簡や作品を取り込んだコラージュであるから『青い鳥』ではない。だが不思議なことにメーテルリンクの意図した世界は再現されていた。まずお決まりの子供向け演劇ではない事。次いで偶然か否か、登場人物像が正しく分析されていた。優しい、短い言葉で紡がれるメーテルリンクの劇世界は雰囲気で捉えられて、登場人物像は正しく再現されないことが多い。ウラジーミル・ジャンケレヴィッチの言うところの「泡の様な」女たちは、一見すると皆、か弱くて儚い。しかし彼女たちは強い。ひたむきに生きる、実は強い女たちなのである。『青い鳥』のミチルも同様である。素直で素朴なチルチルと違って、ミチルはなかなか強い気性である。その為か、弟が3人、妹が4人死んでしまったという二人兄妹のうち、妹のミチルには死の影が見えない。そんなミチルを赤松由美は体現していたと思う。客入れの時点から舞台上にいるミチル・赤松が既にミチルの立ち位置、つまり生きている我々に近い立ち位置を示している。チルチル役の渡邊清楓はその爽やかな風貌と身体で、素直で繊細なチルチルを表現していた。葉月結子はその卓越した身体表現で、明確に夜の女王と光を演じ分けてみせた。アフタートークで俳優の身体表現について聞かれた(聞いたのは明治学院の学生であった)赤井氏は、俳優の動きは各俳優に委ねていると語ったが、それならば今回の出演者たちは皆、登場人物像を十分に読み解いていたことになろう。
「日常の悲劇」や「大きな不動の真実」を描こうとしたメーテルリンクの劇世界は、基本ハッピーエンドではない。『青い鳥』も然り。手に入れたと思った瞬間、青い鳥は逃げてしまう。その曖昧な(あえて「象徴的」と言う言葉は使いたくない。それは本人が望まなかったし、純粋に象徴主義といえる作品は、実は初期の8作品しかないからである。『青い鳥』はこの中には入らない)、しかし実にリアルで深淵な世界は、演出家泣かせである。赤井版『青い鳥』にはこの世界が確かに宿っていた。

 

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ドイツ演劇研究・新野守広

『青い鳥』-言葉の森を手探りで進む旅-

1.「キメラのような作品を上演します」
サブテレニアンから配信された「ほぼ月刊サブテレニアン」12月号に、次回公演『青い鳥』のお知らせが載っていた。「メーテルリンクの原作を核に、ランボーやベンヤミン等のテキストを組み込んで、キメラのような作品を上演します」とのこと。
ベルギー生まれのメーテルリンクは、パリで象徴主義の影響を受けて詩作を始めた。夭折したランボーの詩を読む機会が当時の彼にあったかどうか、私にはわからないが、二人とも19世紀後半に活動を始めた若き詩人たちの系譜に属している。
この系譜は、20世紀前半にナチスの手で破壊された。メーテルリンクはアメリカに亡命することができたが、ドイツ系ユダヤ人であったベンヤミンはピレネー山脈を越える際に自殺した。
そこで今回の公演は、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの光と影をテーマとする興味深い舞台になるにちがいないと思った。ただ、『青い鳥』とランボー、ベンヤミンをどのように組み込んで「キメラのような」舞台を作るのか、想像もつかなかった。演出の赤井氏からはトークを依頼され、初日の数日前には上演台本も送られてきたが、新鮮な気持ちで舞台を見るために『青い鳥』のみ読み直して劇場に向った。

2. 組み合わされるテキスト
 ほぼ1時間の公演だった。舞台には四人の女優が登場する。四人の分担は、演技空間を使って『青い鳥』を演ずる三人(赤松由美、葉月結子、渡邊清楓)と、空間の右奥に立ち、タイプライターを打ちながら、さまざまなテキストを朗読する一人(大美穂)にほぼ分かれていた。『青い鳥』を軸に、関連する数々のテキストを組み合わせて、メーテルリンクの世界を観客の想像力に向けて開く意図なのだろうと思った。
ただ、『青い鳥』を演じる三人の女優が『青い鳥』以外のテキストを語り出すこともあるので、全体的に複雑である。当日配布されたチラシに記載されたテキスト一覧を頼りに、俳優たちの動きを目で追いながら、語り出される言葉に耳を澄ましたが、『青い鳥』と他のテキストが時々刻々入れ替わるため、集中力が必要だった。
例えば、開演前後の冒頭の場面を思い出してみると、客席からみて左手手前に鳥かごが置かれ、中央に一人の俳優が衣装にくるまって開演前から横たわっている(赤松由美、ただし顔は見えない)。時を刻む時計の音が響く中、黒い衣装の女性(葉月結子)、半ズボンをはいた女性(渡邊清楓)、革製の古いスーツケースを手に持ちグレーのスーツを着た女性(大美穂)が左手からゆっくり入ってくる。
メロディアスなヴァイオリン曲が聞こえてくると、半ズボンをはいた女性が観客の目の前に躍り出て紙を撒き、訴えるような仕草で詩を語る(彼女が撒いた紙には、その詩が印刷されていた。ロルカの「水に傷つけられた子供」であるという)。
音楽がピアノ曲に変わると、スーツを着た女性が右手奥の台の上に置かれたタイプライターのキーを立ったまま叩き、『青い鳥』とは別のテキストを語り出す。その内容は手紙の書き手がベルリンに残した弟の安否を気遣うもので、ベンヤミンの手紙だろうと見当がついた。ベンヤミンはヒトラーが政権を掌握する前年にドイツを離れ、地中海のイビサ島に滞在していたことを思い出した。さらに、子どもについて書かれた詩(*)が語られた後、戯曲『青い鳥』の冒頭の場面が始まる。
半ズボンをはいた女性(渡邊)がチルチルになる。床に横たわっていた女性(赤松)が立ち上がってミチルになる。貧しい二人が窓際に身を寄せ合い、お金持ちの子どもたちがクリスマスを楽しく祝っているのを窓越しに見る『青い鳥』冒頭の場面。二人の女優は観客のすぐ目の前に立ち、客席をのぞき込むように台詞を語る。
ここで再びメロディアスなヴァイオリン曲が流れ、赤松がゆっくりと舞台を歩く。右手奥でタイプライターを打つ女性は、この場を説明するかのように、「紛れもなくグラディーヴァであった。……」と語り出す。このテキストはヴァイオリン曲とともに何度か繰り返されるので、グラディーヴァという女性の名前は赤松の歩く所作とともに印象に残った(テキストはヴィルヘルム・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』1903年)。

3. 言葉の森を手探りで進む旅人
こうして、「子ども」「水」「亡命」、さらには「夢」「自殺」といった主題を伝えるさまざまなテキストが語られ、その一部は演じられる中、『青い鳥』の物語は進行する。どの言葉がどの引用元に由来するのか、その場で理解するのは難しい。『青い鳥』とともに、作者不明の多数のテキストが代わるがわる挟み込まれるのを体験しているうちに、言葉の森の中を進むような感覚が生まれてくる。
四人の女優の演技が多様であるのも、森の印象を強めている。ミチルを演じる赤松由美は、古代ローマ人を思わせる衣装を身にまとい、グラディーヴァとして振る舞う場面で堂々とした存在感を発揮する。チルチルを演じる渡邊清楓は熱意が際立つ。黒い衣装で登場した葉月結子は、妖女、夜、を演じた後に白い衣装に着替えて光と隣りの娘を演じ、『青い鳥』の進行を担う。腰を落とした姿勢とゆるやかに動く手が印象的だ。タイプライターを打ちながらテキストを語る大美穂は、いわば『青い鳥』の外に立ち、さまざまなテキストを演技空間に投げ入れる声の役割を果たしている。
こうした多様性を演出の赤井氏はキュビスム的な作風と名付けている。たしかに、さまざまな角度から対象を観察したときの複数の像を同一の画面で表現するキュビスム絵画を連想させる作風だが、舞台は絵画とは異なり、時々刻々動いている。静的な二次元の素材が目の前にあり、それが鑑賞者の心に動的な動きを喚起させるキュビスム絵画とは受容の仕方がやや異なるだろう。舞台の場合は、場面が代われば、俳優の振る舞いや発せられた言葉は目の前から失われ、取り戻せない。けれどもその印象は観客の心の中で蓄積され、舞台を見る現在時に呼び戻され、舞台上の出来事と共振する。そこに演劇の喜びがある(と私は思う)。
さまざまなテキストが演技空間に投げ込まれる赤井演出『青い鳥』では、観客は言葉の森に迷い込むかもしれない(私自身、何度も迷った)。そうしたとき、繰り返し聞こえてくるヴァイオリン曲(ウラディーミル・ヴァヴィロフの『カッチーニのアヴェ・マリア』)が情感を高め、聞き取った言葉のモチーフと俳優たちの振る舞いともに、旅の向かう方角を指し示し、道しるべとなった。時を刻む時計の音がつねに聞こえていたのも、旅のモチーフを高める効果があったと思う。

4. 旅の終わり
チルチルとミチルとともに言葉の森を巡る旅は終わりに近づく。『青い鳥』の最後の場面が演じられ、逃げた青い鳥を見つけたら自分たちに返して欲しいと、チルチルが観客に訴える。すると、『カッチーニのアヴェ・マリア』がふたたび流れ、死と森を主題とする印象的な詩(**)が朗誦された後、「グラディーヴァ」が感情をこめて語られる。最後に大美穂がフランス語で台詞を語り終えると、時を刻む時計の音が響く中、四人は左手に去り、公演は終了した。フランス語はほんの少ししかできない私だが、「アントレ(entrez)」(入りなさい)が繰り返されるのを耳にして、旅を終えたチルチルとミチルを「光」が自宅に戻す『青い鳥』の場面の台詞であることがわかった。
こうして旅が終わり、公演も終わる。演出家の読書体験に裏打ちされ、そこから抽出された、言葉の森への旅。言葉とともに俳優のたたずまいとふるまい、そして声、音楽、照明が、観客の想像力の中で、それぞれが経験してきた人生や読書に応じて、積み重なる。帰宅して上演台本に目を通すと、おもに20世紀前半にヨーロッパと日本で活躍した詩人たちの言葉から作られた舞台であることがわかったが、イスラエルのガザ侵攻のニュースに日々感情を掻き立てられる今の私にとって、遠い世界であるとは思えなかった。
舞台と観客の多面的な交感を求める、いわばユートピア的な相互交流への思いを、赤井演出から感じとった。


上演台本によると、(*)はランボーの「孤児たちのお年玉」、(**)はメーテルリンクの「三の歌」と「十四の歌」。
以下は当日配布チラシに記されていたテキストである。
『青い鳥』モーリス・メーテルリンク(堀口大学訳)
「孤児たちのお年玉」アルチュール・ランボー
「タイプライタア」竹中郁
「舌」北川冬彦
「磁場」アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー
「この道、一方通行」『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』ヴァルター・ベンヤミン
「水に傷つけられた子供」「枯れたオレンジの木のシャンソン」「お月さんのロマンス」ガルシア・ロルカ
『グラディーヴァ』ヴィルヘルム・イェンゼン
「三の歌」「十四の歌」モーリス・メーテルリンク

ライター・平岡希望

 

「あなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。」
 

サブテレニアン (Subterranean) という名の通り、階段を下りていくと平土間式の、出入口から見れば少し奥に長い、壁も床も墨色の空間があって、向かって左が舞台、右には客席の雛壇が2段並んでいるが、この12月1日20時の回では、一段目の足元にさらにマットが敷かれて桟敷席となっており、私はその一番奥に座った。
舞台に向きなおれば、中央には布を掛けられた何かがごろんと置かれていて、“山頂” がほんの少し下手へ寄ったゆるやかな稜線をさらに下りていくと、薔薇?のあしらわれた花笠みたいなものがはみ出している、どうやらその下に顔が、布の下には身体が隠されていて、上手に足先を向けて横たわっているらしいが (後にミチル=赤松由美だったとわかる)、今は死んだように動かない。“山肌” はほぼ真上からの、暗褐色、昼白色、紫、黄色…と移ろう灯りで染められていて、腹部から足先にかけてこごった翳りもその濃度を変えていく。

ミチルの奥の壁には、小さな丸い卓面と長い一本足を持った錫色のテーブル (ハイテーブルとか、バーテーブルとか言うのだろうか) が2台、人ひとり立てそうなくらいの間隔で並んでいるが、その上に置かれたものはここからだとよく見えない、真白の布が載っているらしい舞台中央寄りのものはまだしも、その上手側のもう1台に置かれた四角い?ものは、暗がりに沈んでわからない。
そこからさらに上手には、墨色の床が一部そのまま隆起したような四角い台が斜めに、奥の角と三角を描くように配されていて、上にはタイプライターが、文字盤をその奥の角に向けて置かれている。

角から上手の壁へ、首を1時から2時へと回すと、そこからは2本の赤い紐が流れ落ちており、さっきから目に入っていたが床には一面赤い紐が這っている、紐は、流暢な筆跡みたいに流れているがところどころ書き損じたように丸まっていて、丸められたと言えば、首を3時へ、ほぼ真横へ向けたその先にはまたハイテーブルが、雛壇1段目に迫るくらい近くにあって、その上には書き損じた紙の玉が盛られている…と思ったが白い花だった。
そこから9時の方向、一気に下手側を見ると同じくテーブルがあって、その上には鳥かごが載せられている、上からは青い光が当たっていて、4つのハイテーブル (上の品々) とタイプライターはすべて同様に青く照らされている、鳥かごの奥の出入口を見やると1本の赤い紐はその向こうまで続いていて、もう1本は傍らの本棚から天井へと至り、水面に映った虹みたいにひっくり返った放物線をふたつ描いている。

開演前からずっと、「カッチ、カッチ…」という時を刻むような音が響いていて、“…surprise my joy…knowing my heart…” みたいな落ち着いた女性の声も流れていた、それが英語らしいことはなんとか聞き取れるものの、何を言っているかは語学に疎くわからない、開演が迫るとその声は止む、時の音はそのまま続く。

声が止み、アンビエント風の響きが鳴り始めた…と思ったらすぐにそれも止んでヴァイオリンの叙情的な旋律が流れ、そこに「ポロン、ポロン、…」とピアノが伴奏する、とすぐに出入り口に下ろされた黒いカーテンが翻ってチルチル=渡邊清楓が、抱えもった紙束をベージュのシャツ、そのふっくらとした長袖を振りつつ上手へ下手へ機敏に撒きつつ、しかしゆっくりと、爪先から下ろすように歩むその足は白い足袋に包まれ、茶色い、コーデュロイっぽい吊り半ズボンから伸びている。左胸には青い花のようなものがあしらわれている。

原作の『青い鳥』(堀口大學・訳,新潮文庫) には「衣装」の頁があって (p.8-9)、チルチルは「ペローの童話に出てくる『親指小僧』の服装。(後略)」、ミチルは「『グレーテル』または『赤ずきん』の服装。(訳注を省略)」…といった調子に、例えば「大きな喜びたち」みたいな役をひとまとめとすれば、20 弱の登場人物の服装が形容されていて、そこには複数の先行作品が引用されている。
しかし、例えばペローの『親指小僧』にしたって、主人公である「親指小僧」の服装については、白い小石を詰められるポケットがあること (『完訳 ペロー童話集』,岩波文庫,p.242) や、途中で「人食い鬼」から奪った「七里の長靴」を履くことぐらいしか言及されていない (同,p.253)、『赤ずきんちゃん』にしたって、ペロー版では「小さな赤ずきん」(同,p.176)、グリム版の『赤ずきん』では「赤びろうどの頭巾」(『完訳 グリム童話集 1』,岩波文庫,p.267) となっているがそれ以上はわからない。
文章でないのなら、挿絵なのかもしれない。手元の『完訳 ペロー童話集』を開いてみると各話に白黒の扉絵が付されていて、『親指小僧』では「人食い鬼」から靴を奪う「親指小僧」が、チョッキと半ズボンと思しき姿で描かれている、『赤ずきんちゃん』はおなじみのベッド脇の一幕で、ふっくらとした簡素なドレスあるいはワンピースを着ているが、頭巾はヘアバンドみたいだ。

原作『青い鳥』に戻れば、今回は登場しなかったものの、「とうさんチル、かあさんチル、おじいさんチル、おばあさんチル」の衣装は「グリム童話などによく出てくるドイツの木こりやお百姓さんの服装。」と指示されていて、「木こり」と言えばある共通のイメージが引き出されたのだろう、『親指小僧』にしても『ヘンゼルとグレーテル』にしても、父親は木こりだ (『青い鳥』第1幕第1場が「木こりの小屋」であることから、チルチルとミチルの父親も木こりだと思われる)。しかしそこでチルチルとミチルの服装を「木こりの子ども」とせず作品の引用で説明したことは、もしかしたら、“由緒正しい” 童話のヒーロー・ヒロインの末裔であることを示したかったのかもしれない。

他にも、例えば「妖女」(舞台上にも、チルチルに次いで、妖女=葉月結子が現れていて、奥の壁にへばりつく、あるいはへたりこむように身をくねらせているが、やはり爪先から踵をゆっくり浸すみたいに黒い足袋に包まれた足を下ろす) が、「…姿の見えなくなる指輪だの、空とぶじゅうたんだのの方が~」と言っているけれど、これらも、(おそらく) 前者は「ギュゲスの指輪」(プラトン『国家 上』,岩波文庫,p.119-120) で、後者も『聖書』のソロモン王や『千夜一夜物語』などからイメージが借用されている (該当箇所を見つけられなかったけれど)、それ以上に今の私 (たち) からすると、『指輪物語』とか『アラジン』とかが思い浮かぶそれらは、童話の主人公たち同様、脈々と受け継がれてきた。

そもそも、「思い出の国」(第ニ幕第三場)や「未来の王国」(第五幕第十場) といった世界を訪れては去る原作『青い鳥』の筋立てはそれ自体、本を1冊読み終えては次の本へ読み移ることと似ている、一方、サイマル演劇団の、赤井康弘の構成・演出による『青い鳥』では、登場したチルチルが紙を撒き散らしながら「ぼくは井戸へ降りていきたい」から始まるフェデリコ・ガルシア・ロルカの『水に傷つけられた子供』を全文朗唱していて、私は『ロルカ詩集』(土曜社,p.128-129。同じく引用された『枯れたオレンジの木のシャンソン』と『お月さんのロマンス』も収録されている) を参照した。
そして『水に傷つけられた子供』は幾度も引用されて、次はチルチルとミチルの二重唱だ、その時、すでに原作で言えば第四場の終わり (第二幕第二場と同第三場は省略された) で、ミチル、チルチル、妖女の次 (すなわち最後) に現れ、足を引き摺りながらタイプライターの前に向かった、灰色の背広の男=大美穂は、辿り着くと左手に持っていた古式ゆかしい飴色のトランクケースを傍らに下ろして、そこからはずっとタイプしていた (最初の打鍵と重なるように、“ジャーン!” とピアノも鳴った)。時折、『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』や『グラディーヴァ』(ヴィルヘルム・イェンゼン著) の一節が「男」の口から洩れるものの、その時も “几帳面な” 打鍵は止まず、改行を知らせるベルと、それに応えてスライドしたキャリッジの音も加わる。

しかし、「あの鳥、取られなかったかい?」と、妖女から変じた「夜」が舞台下手の鳥かご、その上に満月のごとく照るライト (その直前にも「夜」は、ロルカの『お月さんのロマンス』を “月” に向かってつぶやいていた) の方へ問いかけると、「大丈夫。あそこの月の光の上の方にいますよ。あんまり高いところにいたから、手が届かなかったものとみえますね。」と応じた男はこの瞬間は「ネコ」だった、ネコは原作『青い鳥』でずっとチルチル・ミチルの旅に同道するが、保身のために裏切っている。
この一言の間止まっていた手はすぐさまタイプを再開し、男は、「声が次第に鳴り止むと、」から始まる別の一節を引用して (『グラディーヴァ/妄想と夢』,平凡社ライブラリー,p.76)、「『その白いお花はわたしのために持ってきてくれたの?』」と、主人公であるノルベルト・ハーノルトに語り掛ける “グラディーヴァ” を、男でもネコでもない声色で一瞬出現させたかと思うと、すぐさまチルチルとミチルの「ぼくは井戸に降りていきたい…」が始まる。

「白い霜の冠をつけて」「なんという白い死だろう」と、 “白” のイメージが木霊する中で「夜」は舞台中央へと赴いて、錫色の (「かたい錫の乳房…」と『お月さんのロマンス』でも歌われている) ハイテーブルに載った真白の布に手をかける、それは白いレースのワンピースで、黒いファーが付いた上着を脱ぎ、頭から被ってしまうとすっかり「夜」は「光」となるが、「なんという光の曠野」というチルチル・ミチルの朗唱がその登場を予言していた。
『水に傷つけられた子供』はまだ続いているが、

「苦しみは」
「絡み合った」
「雨」

…とだんだんずれていってそれこそ雨つぶのようだ、『水に傷つけられた子供』は、チルチルとミチルが「光」と別れた後 (原作,第六場第十一場「お別れ」) の、引用が連続するその中にみたび差し挟まれるが、これまでのような全文ではなく最終連だけだった。

このように、サイマル演劇団版『青い鳥』では複数のテキストが引用されて、ロルカの詩のようにまるまる挿入されるものもあれば、同じ詩でもアルチュール・ランボー『孤児たちのお年玉』は「1」だけだし (『ランボー全詩集』,ちくま文庫,p.19-26) 、竹中郁の『タイプライタア』も第1連だけだ (原著が見つからなかったので https://www.youtube.com/watch?v=WsBPcMNo5TQ で朗読を聞いた)。
そもそも他のテキストは書簡だったり小説だったりとより長いから当然一部分しか引用されなくて (というより引用とはそういうものだろう)、原作『青い鳥』が、本を1冊1冊通読していく動きに似ているならば、サイマル版『青い鳥』は本をつまみ読みしていくこと、それも1冊の (台) 本を書くために文献を当たるその営み自体が反映されているようで、告知文では「キメラ」と形容されているけれど、伝説上のキメラが、「〔Chimera=ギリシャ神話の、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を有し、口から火を吐く獣、キマイラ (ギ Khimaira)」(『新明解国語辞典 第7版』,p.354) で、パーツ毎バラバラにしてしまえば “キメラらしさ” が失われるだろうことを踏まえると、むしろここでのキメラは「接ぎ木キメラ」により近しいかもしれない。
『新明解』の説明は、「から〕二つ以上の異なる遺伝子型を有する生物体。突然変異・接ぎ木・肝移植などによって生じる。」と、神話発祥の概念から生物学、医学へと接続されたことに続いていって、「接ぎ木をしたあと、その癒着面で切り直し、そこから再生してきた芽を育てると、キメラが生まれる」(日本植物生理学会『キメラについて』,2023年12月5日閲覧,https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=465&key=&target=) )らしいが、こうして生まれたものを接ぎ木キメラと呼ぶようだ。

だからと言って、ただ原作『青い鳥』と他のテキストを合わせただけでは (接ぎ木) キメラにはならないはずで、やはりそこには俳優の身体が “癒着面” として存在し、そして中でも “キメラ的” だったのはミチルだった。そもそもミチルは、原作では「グレーテル」あるいは「赤ずきん」のイメージが付与されているけれど、サイマル版『青い鳥』では明らかに姿も声も大人の女性で、失礼な言い方だが冒頭の、顔を隠して、布をかぶって寝そべったままミチルと会話する姿は、むしろ『赤ずきん』で狼が、おばあさんを演じているシーンにも似ている。
しかし、「鎧戸をごらんよ」とチルチルに布を剥がされ起床したミチルの服装は、薄くクリームがかったリネン風のワンピースで、左胸から右の太ももあたりを通って、左の肩甲骨あたりへとゆるく回された黄金色のショール?は金糸で縁取られており、ワンピースの裾も同じく金糸で縫い取られている。
そしてそこに “青い鳥の羽根” が、“ショール” と同じく左胸から始まり、右から左へ腰を抜けてまた左胸へと戻ってぐるっと巻き付いていて、もちろん細部は違うものの、雰囲気としては「近くで見ると彼女の白い服は、かろやかに黄色に傾きながらさらに暖色の色合を高めていた。繊細な、極上にやわらかい毛織物地でできているのがはっきり分かる。たっぷりしたプリーツはそのせいである。頭に巻きつけているスカーフも同じ生地だった。その下に、頸(うなじ)のあたりにまたしても、無造作に一束にたばねた茶色の髪の一部がのぞいてきらめいている。首の前のところ、優美なおとがいの下で、小さな金属の留めピンが衣装を前合わせにまとめていた。」(『グラディーヴァ/妄想と夢』,p.64-65) と描写された “グラディーヴァ” に近くて、頭にはシンプルなヘッドドレスを着け、たしか髪もひとつに束ねられていた、おとがいの下でもピンでもないが、円形の金具が右の鎖骨下あたりに光っておそらく “ショール” を吊っている。

“グラディーヴァ” とは、『グラディーヴァ』の視点人物であるノルベルト・ハーノルトが「ローマのさる大古美術館を見物中」に見つけた浮彫 (レリーフ) でもあり (同,p.9)、夢に見た似姿でもあり (p.17-20)、現実の街中で目撃した「まぎれもなくグラディーヴァ」(p.55) な横顔、そして思わず話しかけたノルベルトに「私の名はツォーエ」(p.83) と告げた女性でもあり、「私の部屋の窓際にはカナリアのいる鳥籠があるの。」「家には父も住んでるわ、動物学者のリヒャルト・ベルトガング教授。」という言葉で「眼がこれまでに達したことのない大きさまでに開いた」ノルベルトがようやく思い出した幼馴染のツォーエ・ベルトガング嬢でもあって (p.122)、「たっぷりしたプリーツ」 (p.64) や、「雪白のドレスの襞」(ランボー『孤児たちのお年玉』) さながらに4重5重と折り重なったイメージ、その新しい層として「ミチル」がサイマル版『青い鳥』では付与されて、“接ぎ木” されている。

そもそも原作『青い鳥』でミチルはあんまりしゃべっていなくって、例えば「この家には歌を歌う草か、青い鳥はいないかね?」と言いながら現れた妖女に「にいさんが鳥を持っているわ。」と応じていたけれど (p.25)、次に妖女と話すのは3ページ先の「それから妹も四人いたわ。」で (p.28)、その間はずっとチルチルが妖女と話している。一方でサイマル版『青い鳥』では「お隣のベルランゴーおばさんにすこうし似てるようだけど。」(p.26) を皮切りに、原作におけるチルチルのセリフをミチルが言うことが多くて、妖女が登場してから「この袋の中から、なにが出ると思うね。」と言うまでの間 (p.25-31) に原作では妖女のセリフは 28 あるが、サイマル版では「そんなことはとてもできないよ。それが悪い癖なんだよ。あそこから出ることにしよう。」が削られて前のセリフと合体しているから 27 だ (サイマル版には出てこない「思い出の国」に関するセリフも削除されているけれど、最後の「お前たち、なにをしていたんだね?」だけ残されたからセリフ数としては変わらない)。それに応ずる原作チルチルのセリフも 28 だが、サイマル版では、妖女のセリフ変更に伴って「やっぱり、あそこから出たいんだけど。」(p.27) が削除されているから総数としては 27 だ、さらにそこからミチルへと移されたセリフが前述の「お隣の~」に加えて

②「ふうん、そうなの。」、
③「あそこに寝ているよ。」、
④「やっぱり死んでしまったの。」、
⑤「そうだよ、でも食べてるところはすっかり見られるもの。」、
⑥「そんなことはないでしょう。あの人たち、お金持ちなんだもの。ねえ、向こうのうちと てもきれいでしょう。」、
⑦「このうちなんて、ずっと暗くて小さくて、それにお菓子もないのに。」

とあるから引けば 20 になる (②・③は p.27、④は p.28、⑤~⑦は p.29に該当)。反対にミチルはその 7 を、元々のセリフに足せば 9 となって、なおチルチルよりは少ないがそれでも出番は増えた。

それ以上に、原作では「魔法の帽子」を妖女から授かったのはチルチルだったけれど (p.31-32)、今回はミチルに変更されていて、薔薇?のあしらわれた花笠みたいな、最初、顔を隠していたあの帽子の “とんがり” の下によく見ると “ダイアモンド” が付いている (妖女「これが目をよく見えるようにする大ダイアモンドだよ」,p.32)、そしてなにより佇まいが印象的で、チルチルと妖女が、妖女の容姿について話しているシーンではセリフこそないけれど (p.30-31)、こちらを彫像のようにジッと見つめていたかと思えば、「つぶれてなんかいるものか」とチルチルを一喝した妖女の剣幕に驚いて兄の後ろに隠れたりと、大人の女性である “グラディーヴァ” のイメージと、幼子であるミチルのイメージを行ったり来たりしている。

『グラディーヴァ』からは、

a.「紛れもなくグラディーヴァであった~」(p.55-56)、
b.「声が次第に鳴り止むと~」(p.76)、
c.「やがてグラディーヴァ・レディヴィーヴァ・ツォエ・ベルトガングは~」(p.136) 

の3か所が引用されているけれど、a・b は2回ずつ反復されるから劇中には5回登場する、しかしそれらのセリフがミチル= “グラディーヴァ” 本人の口から語られることはない。そのことは、『グラディーヴァ』が徹頭徹尾ノルベルト・ハーノルトの、「異常に活発なファンタジー」(p.26) を備えた男の視点で進み、(会話こそ交わしているものの) “グラディーヴァ” が語られる対象であることとも通ずる。
そして反復を含めた5回の引用の内、1回はチルチルの口から「紛れもなくグラディーヴァであった~」と語られるけれど、残り4回はタイプライターを打ち続けている男の口から発せられて、なおかつ引用bの中には「『お座りになりません?立っていてはくたびれるわ』」と「『その白いお花はわたしのために持ってきてくれたの?』」という “グラディーヴァ” =ツォ (ー) エのセリフが混じっているから男は “グラディーヴァ” でもありノルベルト・ハーノルトでもあり、そして作者であるヴィルヘルム・イェンゼンでもあるのだろう。

イェンゼン (=ノルベルト) が “グラディーヴァ” と呼んだ浮彫像はジークムント・フロイトによれば「ヴァティカンのキアーラモンティ博物館所蔵番号644」で、「ギリシア芸術開花期」の実在の作品らしい (『グラディーヴァ/妄想と夢』,p.273)、平凡社ライブラリー版の表紙にはこの浮彫像があしらわれているし、そもそも今回の『青い鳥』フライヤーもそうだ (私は観た後に気がついた)。
その表紙、フライヤー、あるいは検索して出てきた画像を見ればすぐ分かるように、“グラディーヴァ” 像の「左手は並はずれて襞の多い服を軽くつまみ上げて」いて (p.66)、男が、あるいはチルチルがこの部分を声にするのと同時にミチル= “グラディーヴァ” は下手側を向き、左手でかろやかなリネン風のワンピースをつまみ上げて同じ動きをするけれど、ついその左手からすぅ…と視線を下した左足、踵を上げたアーチに目が行ってしまうから、ノルベルトがはっきりと認めた、「右足が前に歩み出る動きにつれて、一瞬にもせよ、足指のつま先が踵と一緒にほぼ垂直に持ち上がる」瞬間は何度も見逃した、おそらく浮彫像に象られた一瞬も、ノルベルトが捉えた一瞬から遅れること数瞬のもののはずで (右足がもう地面に着いてしまっているから)、イェンゼン=ノルベルトにしか補足できない光景なのかもしれない。

ミチル= “グラディーヴァ” は、「紛れもなくグラディーヴァであった~左手は並はずれて襞の多い服を軽くつまみ上げて…」を男とチルチルが1回ずつ引用した時と同じく ( “グラディーヴァ” がノルベルトの幼馴染であるツォ (ー) エであることを踏まえると、ここでチルチルは少年に、幼い頃のノルベルトになっているのかもしれない) 、男が「やがてグラディーヴァ・レディヴィーヴァ・ツォエ・ベルトガングは、左手でドレスの裾を軽々と捲り上げると~」をラストの一歩手前で引用した時にも例のポーズを取っていた。
その時すでにチルチルと妖女=夜=光は退場していて、ミチル= “グラディーヴァ” も、「ハノルトの夢見るような視線に包まれながら、燦々と陽光の降り注ぐ石畳の上を、しなやかな落ち着いた足取りで街路の向こう側へ渡っていった。」という男の引用に合わせて去っていった、この時すでに男はタイプを止めて右手で鞄を持っていて、舞台中央へと進み出たがその右足は引き摺られている、それは男が、イェンゼン=ノルベルト・ハーノルト (ハノルト) でもありヴァルター・ベンヤミンでもあるからだ。

幕が上がってからの男の第一声は「僕の弟の状況は最悪のことを危惧させるものだ~」から始まる引用だった、原著に当たれなかったから定かではないが、続く

「ベルリン」、
「サン・アントニオを離れてイビサの町へ移るか、イビサの島そのものを去ることになるだろう。」、
「親愛なるゲーアハルト、これはユダヤの正月の年賀状なのだが~」

から引用文献一覧中の『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』であると思われる、ベンヤミンはベルリンのユダヤ人家庭の生まれで、地中海のイビサ島に亡命していた、「ゲーアハルト」はゲルショム・ゲルハルト・ショーレムのことで往復書簡の相手だ (三宅晶子,“「帝国の想起」と「資本の夢」 ヴァルター・ベンヤミン『1900年頃のベルリンの幼年時代』『パサージュ論』における<想起>”,https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900117894/hikakubunka_no.2_01_23.pdf 及び『書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG』https://booklog.kinokuniya.co.jp/booklog/hase/archives/2009/06/post_2.html を2023年12月5日に閲覧)。 
「僕の病気のことだが、右の脛の傷がひどく膿んでしまったのだ。」と男=ベンヤミンは (舞台上にはいない) ゲーアハルトに語りかける、その手はずっとタイプを続けていて、床に散らばった (八角形の) 紙には『水に傷つけられた子供』がタイプされたものもあれば「anohitotachikurerukashira」みたいなアルファベットが並んだものもあって、何語だろう、と思っていたらローマ字で「あの人たちくれるかしら」…というチルチルとミチルの冒頭の会話が書かれていたりした、それらの大半はチルチルが登場と共に撒き散らしたものだろうが男によってこの場で打たれたものも混ざっていたかもしれない、男は時折打ち終わったのか、紙を取り換えていた。

床に散らばった紙は俳優同様、その時々で色々な役を演じていて、ある時は「鍵」で、ある時はその鍵によって開く「扉」だった、場面は「夜の御殿」(原作の第三幕第四場に当たる)、青い鳥を探すため片っ端から大広間の扉を開けて回るチルチルに、「夜」は「気をおつけ。そこには『戦争』がはいっているんだよ…」と諭す (p.89)。
その時、舞台に居合わせた観客の頭には現在進行形の戦争がきっとよぎった。もしかすると俳優たち、スタッフ、演出家の頭にも思い浮かんでいたかもしれなくて、舞台への “引用” はテキストだけに済まされない、今お腹が空いている、今日嫌なことがあった、戦争がずっと続いている…ということは、並べるのが躊躇われるほどにかけ離れているけれどすべて舞台へと持ち込まれるはずだ、原作『青い鳥』、その第五幕第十場「未来の王国」では未来に生まれる子供たちが宮殿の大広間に控えているが (p.180)、子供たちは「みんななにかを地上に持って行かなければいけな」くて、「手ぶらで出ていくことは止められている」からみんな「毎日働いている」 (p185-p.195)。
そして「時」が来ると、子供たちはその前に列を成して集まるが生まれる番じゃない子供は追い返される、そして生まれる番の子供でも、「発明」を持ってこなかった子供は、「なにも持ってこないと?手ぶらか?ではここを通ることはならん。なにかを用意してこなけりゃいかん。大きな罪でも、病気でも、しかたがない。それはわしの知ったことじゃない。だが、なにかを持ってこなければだめだ。」と言われて生まれることはできない (p.198-199)。

サイマル版『青い鳥』に「時」は登場しない、しかしチルチルの「『時』がぼくたちを扉から追い出したのは覚えてるけど。」というセリフでは言及されているし、その前の、原作で言えば第四幕第七場「墓地」にあたる場面の終わりでもチルチルは「あ、夜中の十二時を打つところだ。」と時へ注意を促す、そして「あ、夜中の十二時を打つところだ。」と「『時』がぼくたちを扉から追い出したのは覚えてるけど。」の間に差し挟まれた引用はメーテルリンク本人の『三の歌』で、「男達は、三人の少女を殺した/彼女達の心臓の中を見るために」で始まる詩は

「三匹の蛇は、三年間も噴気音を鳴らしたそうだ」
「三匹の子羊は、三年間も身を震わせたそうだ」
「三人の大天使は、三年間も夜伽をしたそうだ」

と「三年間」を三回繰り返して、それをチルチル、ミチル= “グラディーヴァ”、「光」の三人が朗唱する。何よりここまでもずっと「カッチ、カッチ…」という時計みたいな音がしているし、これを鼓動=心臓として捉えれば、

A.「穴あけられた心臓を」(水に傷つけられた子供)
B.「お前の心臓で作るだろ」(お月さんのロマンス)
C.「ノルベルト・ハーノルトの脈動がふと停止した。」(グラディーヴァ)
D-1.「彼女達の心臓の中を見るために」(三の歌)
D-2.「一人目の娘の心臓は、幸福に満ちていた」(同)
E.「心臓がどきどきして、 その子は息をこらす。」(ベンヤミン『この道、一方通行』)

の引用も連動している、そして A,C,D-1,D-2 は2回ずつ反復されるから印象はもっと強く、「時」は、「ゆらゆらする長いひげをはやした」「かまと砂時計を持」った「老人」(原作 p.198) は、姿が見えずとも舞台に存在している。

同じ劇場に集った人と、同じ時間を過ごしている、この「劇場」の部分に「世界」を代入して、同じ世界に集った人と、同じ時間を生きていると言うこともできるはずだ、そうやって共有している世界に、「未来の王国」の子供たち同様、ひとりひとりが何かしらを持ってやってきて、それを投げかけている。4人の俳優たちにしたってそうで、それぞれに異なるセリフを、引用を持って舞台にやって来て、それを互いに差し出し合っている。そうして差し出された言葉は、例えば「紛れもなくグラディーヴァであった。」という引用が男からチルチルへ託されたように人と人の間を渡っていく、ただ見ている観客だってそうで、お腹空いた、今日嫌なことがあった、ここ面白い、さっきのなんだったんだろう…みたいなとりとめのない想念をおそらく態度として舞台に注いでいるし、舞台の外の出来事も否応なしに侵入してくる(舞台に流れる赤い紐も、“源流” を辿ればサブテレニアン外の「止まれ」標識に行き当たる)。それらは決して “邪魔なもの” ではないはずで、赤井が「数多の作家のテクストを組み込みながら上演する」(『青い鳥』フライヤーより) のは、精緻で寸分の隙もない作品を作るためというよりは、むしろ “穴だらけ” の時間を作るためなのかもしれない、そしてその “穴” から “光” がもたらされるのだろう。

「いい子だから泣かないで、わたしは水のような声は持っていないし、ただ音のしない光だけなんだけれど、でも、この世の終わりまで人間のそばについていてあげますよ。注ぎ込む月の光にも、ほほえむ星の輝きにも、上がってくる夜明けの光にも、ともされるランプの光にも、それからあなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。(壁の後ろで八時を打つ)ほら、時計が鳴ってます。さようなら。扉が開きますよ。おはいり、おはいり、おはいり。」(送ってもらった台本より。舞台上にひとり残された男はフランス語でこのセリフを言う、これは原作『青い鳥』p.218、第六幕第十一場「お別れ」で、「光」がふたりに遺した言葉だ。)
 

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