
サイマル演劇団

サブテレニアン20周年メモリアルⅢ
サイマル演劇団+コニエレニ
日記
原作/ヴィトルト・ゴンブローヴィチ
翻訳・構成・演出・美術/赤井康弘
世界すべてを異郷と見なす者こそ、完璧な人間だ。(フーゴー)
ポーランドの鬼才ゴンブローヴィチが
亡命先のアルゼンチンで書きつけた日記。
新訳にて本邦初上演!
出演
赤松由美(コニエレニ)
葉月結子
大美穂
辻たくや(天狼星堂)
2026年
7月16日(木)20時✴︎
7月17日(金)15時/20時✴︎
7月18日(土)13時✴︎/18時✴︎
7月19日(日)13時✴︎
7月20日(月)20時
7月21日(火)day off
7月22日(水)day off
7月23日(木)15時/20時
7月24日(金)15時/20時
7月25日(土)13時✴︎/18時✴︎
7月26日(日)13時✴︎
✴︎アフタートークゲスト
16日(木)20時 平岡希望(劇評家/ライター)
17日(金)20時 豊川涼太
18日(土)13時 星善之(ほしぷろ主宰/演出家)
18日(土)18時 菅井啓汰(劇団身体ゲンゴロウ主宰/脚本家/演出家)
19日(日)13時 辻たくや
25日(土)13時 大美穂
25日(土)18時 葉月結子
26日(日)13時 小林創(学生/どらま館制作部)
上記以外は、赤松由美、赤井康弘の二人が登壇。
劇場/サブテレニアン(東京都板橋区氷川町46-4 BF)
料金/一般3500円 学生・障がい者2000円
サイコニ応援チケット10000円
予約/こりっち
https://stage.corich.jp/stage/462425
問い合わせ/info@subterranean.jp
080−4205−1050(赤井)
照明/麗乃(Luce)
音楽/イエジー・モンチェインスキ
音響/豊川涼太(街の星座)
舞台監督/大山ドバト(サブテレニアン)
宣伝美術/伊東祐輔(おしゃれ紳士)
記録/腰山大雅
鳥山直也(コニエレニ)
制作/竹岡直紀(劇団俳優難民組合)
齊藤さゆり(コニエレニ)
さたけれいこ(サブテレニアン)
Company Member/坂本美香子(コニエレニ)
企画・製作/赤松由美(コニエレニ)
赤井康弘(サイマル演劇団)
助成/アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成】
公益財団法人全国税理士共栄会文化財団
後援/ポーランド広報文化センター
主催/サイマル演劇団
一般社団法人コニエレニ
サブテレニアン
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初日速報レビュー 『あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに。 ―― サイマル演劇団+コニエレニ「日記」のための至急報』 平岡希望(劇評家/ライター)2026年7月18日発表 この男はスタンチク、ただしく呼べばスタニスワフ、奇妙なこの世の事柄をじっくり見つめている者だ。 なぜなら、彼は狂った姿で真理を説くからだ、 ほんらい真理を語るべき者たちが黙っているときに。 かつては彼のようなスタンチクたちがまだたくさんいて、 偽りという恥ずべき雑草を抜き去って、 聖なる真理を人びとの前で語ったものだ、 そしてお世辞よりも多くのものを手にしたのだ。[1] 「ルネサンス期のポーランド宮廷に実在した道化師」[2]であり、今なお「ポーランド国民が自らの歴史に向けるまなざしの象徴」[3]でもあるスタンチク。「不具の騎士」[4]とも称された彼の末裔じみた車椅子の道化師(辻たくや)が、舞台上手から中央へ向けた視線の先には、紫色の「並外れて襞の多い」ドレスの『グラディーヴァ』[5]みたいな赤松由美の横顔が見える。先刻から響くタイプライターの打鍵は彼女によるもので、舞台を覆い包むようなメトロノームとともに、音で空間を切り刻んでいく。彼女の頭上ではチェス盤が、膠着した局面のまま逆さまに浮かび上がっていて、駒に絡まった赤い糸は、同じく宙づりの本へ、時計へ、トランクへ、ジャケットへ伸びている。 ピンクのシャツに、朝顔模様の黄色い着物をワンショルダーワンピース風に肩で結び留めた葉月結子。彼女が、下手奥の本棚から向かったマイクスタンドもその脚部を本棚へと向けていて、マウリッツ・エッシャーの精緻なだまし絵《相対性》[6]のようだ。階段と踊り場が四方へねじれ続いていく画中では、デッサン人形のごとく無個性な人物が "そそり立つ壁面のベンチ" に悠々と腰かけているが、眼前の舞台にも、やや下手寄りの壁面を床として、二人がけの白い木製ベンチが据えられている。そこに “腰かけて” いるのは、浅葱色の着物に濃紺の開襟シャツを肩衣風に着込み、胸元には白のナイトのペンダントを着けた大美穂だ。大が見上げているのは、数瞬前からマイクの前に立ち、エコーをまとわりつかせながら「・・・これまで我々が知ってきた個人主義哲学は自らを破滅させた。そして近い将来、人類を待ち受ける最大の幻滅は、集団主義哲学の破綻である。・・・」[7]と語る赤松の姿なのだが、彼女は身をひるがえすたびにその印象を一変させる。それは、桔梗と思しき柄のあしらわれた着物を左半身だけ掛けているからで、 「『こういうふうに完全なものはなんでも半分になるのだ』そう言いながら、叔父は岩場に腹ばいになって、そこにうごめく半分の蛸をなでた。『こうしてやれば、すべてのものが無知で鈍い完全さから抜け出せる。かつて、わたしが完全だったころには、すべてのものが自然に、そして空気のように愚かしくも混乱して見えた。』」[8] トルコ軍の大砲に吹き飛ばされた右半身と左半身が、それぞれ残虐な《悪身》と教条的な《善身》となって領民をさいなむ『まっぷたつの子爵』は最終的に「悪意と善意の入り混じった、まっぷたつにされる以前の体と見かけは変わらない、完全なひとりの人間に戻った。しかも彼にはひとつになる以前の半分ずつの経験があったから、いまでは充分に思慮深くなっていた」[9]。 本公演もまた、ポーランドを代表する作家ヴィトルト・ゴンブローヴィチがその思想を縷々綴った『日記』[10]、「ポーランド語で千頁にもなんなんとする」[11]長大な独白ともいうべきテクスト(のごく一部)を俳優4人が分有している。・・・という構造ではあるのだが、"四分の一ゴンブローヴィチたち"[12]が、「十分に思慮深く」「完全なひとりの」一分の一ゴンブローヴィチへと縫い直されるわけではない。それは、それぞれの文化を豊かに育んだ島々が、もはや一つの大陸へ復すことなどできないようなものだが、島尾敏雄が「日本語のワルシャワ方言」[13]を見出し、「クラクフ出身の人類学者ブロニスラフ・マリノフスキー」が、ポーランド語に現地語まじりの「多言語混淆的(マカロニック)な」『日記』[14]を著したように、断絶というよりはむしろ「国家・国境・民族性・言語といったまさに近代的個人が帰属する制度的な指標をさまざまに相対化し無化する契機」[15]をもたらす。 「ブエノスアイレスからの16時間のバスの旅は(スピーカーから鳴り響くタンゴさえなければ)かなり耐えられるものだった。サルシプエデスの緑の丘もその中にあり、私はミウォシュの『囚われの魂』を脇に抱えていた。昨日は一日中雨が降ったおかげで、その本はほぼ読み終えた。そう、君たちはこれに運命づけられていた……」[16] 上手前方の辻が「タンゴ」と発声するやいなや、赤松と葉月はその後ろでタンゴを踊るふりをする。3歩ほど離れた彼女たちの間に挟まれた、(今は)無人のタイプライター台。そのすぐ近くの壁には、ピンクのライトが二筋伸びていて、そこだけが書き手のために設えられた、別の空間のようだ。「私はミウォシュの・・・」のあたりでタンゴは終わり、深々とした礼ののち葉月は上手の壁へ激突する。赤松はタイプし始める。「その本は読み終え・・・」に重なったのは、下手のマイクにささやく大の声だ。「スコリームフはファラムーシュカ荘の/おかかえ教師ミーチャ嬢の小部屋/戸棚にひそんだ賊ふたり賊ふたり」[17]という一節は、ゴンブローヴィチではあるが『日記』ではない。彼の小説『フェルディドゥルケ』に出てくる俗謡で、ささやかれる猥雑な詩句が、メインテクストへと混線していく。鳴り続ける打鍵音。葉月は上手前方で、壁に足をもたれかかせて逆立ちをしていて、辻は独白を続けながら車椅子で舞台中央へ向かう。そこに "脱出“ のイメージが想起されるのは、彼がそれまでずっと上手に(公然と)ひそんでいたからだ。あるいは、にわかに温まってきた液体が、相対的に温度の低い方へゆっくりと流れ込んでいくさまになぞらえてもいい。サックスだろうか。プツプツとした電子音や、遠いクラクションめいた環境音(?)も混じったイエジー・モンチェインスキの音楽にも濃淡があって、その間隙を縫って、サイマル演劇団おなじみのメトロノームの音が、小島のごとく浮かび上がってくる。そういえばサイマルとは "Simul"、すなわち「同時に」という意味のラテン語[18]が由来ではなかったか。一本道のストーリーに収斂することなく、同時期に生じてはもつれ、やがて消えていく事象の数々。赤井がこの『日記』で、というより私が見た限りの演出作で試みていたのも、ひるがえって、多種多様な文化がその自律性を保ちながらも混ざり合う「群島=多島海(アーキペラゴ)」[19]を舞台上に現出させることだったのではないか。 「私は今、自分の部屋でこれを書いている。しかしもう止めねばならない。下宿屋『ラス・デリシアス』で夕食が待っているのだ。さようなら、小さな日記よ、私の魂の忠実な犬よ。」[20] 上手へ戻ってそう宣言した辻に、赤松と大が振り向きざまに視線を飛ばす。葉月は、一つ前の台詞[21]を放つとともにその身を床へ横たえた。これまでも断続的に打ち鳴らされていた、 「ダンッ!」 という足音(赤松か、大か?)が空気を切り裂くやいなや、 「吠えるな!」 「さようなら」 辻の制止に続いて大がつぶやき、 「 ―― 主人は確かに去るが、必ず戻ってくるのだから。」 辻がそう言い終えると、赤松は猛烈な打鍵音を響かせた。舞台はここから終盤だ、この至急報も必ず戻ってくる。 〈『「日記」のための"遅れた至急報" 』へ続く〉 注 タイトルはクロード・レヴィ=ストロース/著,川田順造/訳『悲しき熱帯 Ⅱ 』中公クラシックス,p.428 による。 なお、引用したURLの最終閲覧日はすべて2026年7月17日である。 [1]小山哲「〔最終講義〕道化師スタンチク —— ポーランド史における懐疑と諧謔」『フェネストラ:京大西洋史学報 第10号』京都大学大学院文学研究科西洋史研究室,pp.25ー26 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/items/06031640-9f04-40ea-9550-39061b592f16 [2]同論考,p.16 [3]同論考,p.17 [4]同論考,p.23 [5]邦訳書籍としてのタイトルは『グラディーヴァ/妄想と夢』(ヴィルヘルム・イェンゼン,ジークムント・フロイト/著,種村季弘/訳,平凡社ライブラリー)であり、直前の引用も同書より(p.56)。 なお、サイマル演劇団『青い鳥』(2023/2025)にも引用されており、その際、大が主人公ノルベルト・ハーノルトを、赤松がノルベルトの "理想の女性" グラディーヴァを象徴していた。 [6]cf., https://escherinhetpaleis.nl/en/about-escher/masterpieces/relativity(エッシャー美術館ウェブサイト) [7]上演台本より。 [8]イタロ・カルヴィーノ/作,河島英昭/訳『まっぷたつの子爵』岩波文庫,pp.71-72 [9]同書,p.152 [10]抄訳については、西成彦「日記/一九五三‐一九五六」(国書刊行会『トランス=アトランティック』所収)を参照のこと。 [11]西成彦「補遺解題」『トランス=アトランティック』p.194 [12]cf.,「しかし、ここで考えてみなければならないのは、どうも具合の悪いことだが、諸君がまだショパンたちでも、シェークスピアたちでもないということだ。芸術家としても、芸術の祭司としても、諸君はまだ完全ではない。諸君は、現在の発展段階では、せいぜいよくて二分の一シェークスピア、四分の一ショパン(アア、呪われた部分よ!)にすぎないのだ。」(ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ/著,米川和夫/訳『フェルディドゥルケ』平凡社ライブラリー,p.136) [13]cf.,「そのとき、ワルシャワ大学の日本語学科で出逢った多くの学生たちが独特の個性的な語法とともに話す『日本語』もまた、日本という国家的テリトリーを離脱した自由な帰属のもとに捉えなおされた。学生たちの、モチロン、ザンネン、デ “ズ” ガ、モシモといった特徴的語彙の、どこか奇妙な使用慣習が、彼にはかえって『風変わりな表現の美しさ』をもったことばとして響き、不思議な『酔い』をもたらし、彼自身の表現能力をふくらませるようにさえ感じた。島尾はそれを機知を込めて『日本語のワルシャワ方言』と呼び、それは彼に『日本語の可能性の実験』を思わせたと書いてもいる。」(今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社,p.321。原文の傍点については “ ” で示した) [14]cf.,「マリノフスキーの総体的な言語実践のありようは、同時代の西欧人人類学者の言語的な透明性とは大きく一線を画す、きわめて複雑で屈折したものであったといえる。その証言ともいうべきテクストが、彼のトロブリアンド諸島調査中の日記である。〔...〕オリジナル・ テクストは、いうまでもなく手書きのポーランド語でノートに書きつけられたものであった。だが調査地での日記に特徴的なように、それは現地トロブリアンド諸島のダイアレクト〔=方言〕であるキリウィナ語や近隣のマイルー語、モトゥ語、さらにニューギニアの共通言語となっているピジン語などが混在し、 英語による慣用句や学術用語も頻出する、すぐれて多言語混淆的なテクストでもあった。」(同書,p.322。中略および引用注については〔 〕で示した) [15]同書,p.321 [16]上演台本より。 [17]『フェルディドゥルケ』pp.26-27。この一節はサイマル演劇団+コニエレニ『フェルディドゥルケ』(2024)でも使用され、その際は「おおきなのっぽの古時計」のリズムに合わせて劇中で2度斉唱された。 [18]英語 "Simultaneous" の語源であり、「mid 17th cent.: based on Latin simul ‘at the same time’, probably influenced by late Latin momentaneus.(拙訳:17世紀半ば、『同時に』という意味のラテン語 "simul" に由来し、おそらく後期ラテン語の “momentaneus” の影響を受けたものと考えられる」。 cf., https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/simultaneous [19]『群島-世界論』p.330。なお、赤井はしばしば「アーキペラゴ」という言葉を、彼が企画運営するサブテレニアンの理念という文脈で(も)用いている。 [20]上演台本より。 [21]上演台本では「質問:ミウォシュは、自由なポーランド文学として、これらの要求を部分的にでも満たすことができるのか?」だが、葉月は「〔前略〕部分的にでも満たすことが “かのるきで” ?」と言った。彼女はその前後でも単語や文節を解体して発話しており、それは私にサイマル演劇団『シュルレアリスム/宣言』(2024)を想起させた。なぜなら同作にも出演していた葉月が、シュルレアリスムの定義を「百科辞典。ある種の連想形式のすぐれた現実性やシュル心のメカニズムを決定的に破産させ、レアリスムはそれまでおろされてそかにきた夢の全能や、思考の無欲無私な活動などへの頼信におく基礎を。他のあらゆる人生の主要な諸問題の解決においてめざすことをそれらにかわるとって。」と述べたから(cf., アンドレ・ブルトン/著,巖谷國士/訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫,p.46)。
『それより、孫国の方がステキじゃない? ―― サイマル演劇団+コニエレニ「日記」のための "遅れた至急報"』(平岡希望)
辻「角を曲がって現れるのは誰だ? 男か? 犬か? 犬ならどんな姿形、どんな血統か? テーブルに座ればすぐにスープが運ばれてくるが、どんなスープだろ ―― 」
大「患者に消化しやすいスープ!」
エッシャーのだまし絵みたいに、下手寄りの壁面を床として吊られたベンチ[1]。そこに中腰で掛けた大美穂が、上手の辻たくやへ振り向きざまにひそひそと、しかしよく通る声で放った一言は、
大「亡命メディアは、患者に消化しやすいスープしか与えない病院を連想させる。なぜ傷口を開くのか? なぜ人生が与えた傷に生々しさを加えるのか?」
彼女が冒頭で淡々と述べた批判の反響か。いや、むしろ文脈から切り離され、比喩から文字通りの言葉へ「転用」[2]されたといったほうが近いだろう。
演出家・赤井康弘はこれまで、主となるテクストのアイデンティティを脅かすかのように、詩・書簡・戯曲・評論といった別種のテクストを過剰に転用し組み合わせた「キメラのような」作品群を発表してきた。対して本作は、『シュルレアリスム/宣言』(2024)や『帰郷ノート』(2025)に代表されるメインテクストのみを用いた作品群、いわば "非-キメラの系譜"に連なりつつも、そこで培われた手法 ――「解体」[3]と「差し込み」―― を更新する一作だった。とりわけ後者は、『帰郷ノート』の演出において編み出され、その後の『青い鳥』再演(2025)を経由して本作にも導入された。要はそのときメインと目される(長)台詞に対して、周りの俳優が別の台詞や所作をかぶせていくというものなのだが、
「胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。〔……〕茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛っていれば清浄潔白で何も不足はないじゃないかと云う気になった。」[4]
それこそ「患者に消化しやすいスープ」を飲まざるを得ないような、前ぶれもなく避けがたい痛み。「世界がただ真黒な塊に見え」[5]てしまうほどの身体的な訴えと響きを一にするその技法は、まさしく精神に対する、身体の反逆だったのではないか。手を伸ばし、頭上に吊られた時計を、ジャケットを仰ぎ見ながら葉月結子が「ミウォシュから手紙が届いた。」「ミウォシュから」「手紙が届いた。」「ミ」「ウォシュ」「から」「手」「紙が届いた。」とリフレインしたとき、メインの台詞を語る大も、それを聴く私たちも、その声に脅かされた。言葉を発し、理解しようとする精神の働きは、差し込まれる別の(転用され、解体された)言葉に、その所作に阻まれた。
台詞の特権性を奪わんとするものは、それだけではない。一定の、機械的な調子で幾度も振り下ろされるハンマーのごとき足音[6]。機関銃めいたタイプライターの打鍵。昂っては鎮まるサックスの脈動、あるいは波から浮上するように届くメトロノームは、開場からずっと鳴っていたはずだがまた無意識の奥へ潜んでしまう。下手前方でスタンドもろとも横吊りにされたマイクも、照明も、“時の主役” を常に支えるものではない。ポリフォニーと言っては行儀が良すぎる。むしろノイズミュージックじみたこの混沌は、
「いまや、バカバカバカボコボコ、バカボコがあばれ馬のように場を支配している! 〔……〕バカバカやってるホラーシオにひきずられて、イグナツが大爆発、バカ、バカ、バカッ! ホラーシオがランプをパカッといくと、イグナツはランプをボコッ。と思うと、こんどはホラーシオが花瓶にバカボコ、イグナツも花瓶にボコッ! そしてトマシュめがけてホラーシオがバカッ!」[7]
自伝的小説『トランス=アトランティック』にも通ずるものであり、かつ、
「おお、イエス、〔……〕お前に指揮されて捕えられ火炙りにされた上にひきちぎられ噛み砕かれてお前にのみこまれたガリラヤ湖の魚の苦悩もまたお前の苦悩に劣りはしないのだ。」[8]
「食われた亡者が食った亡者をついに見つけて弾劾する」[9]ように、肉体が精神を、国民が国家を、「侵略や戦争に巻き込まれては度重なる国境線の変化を経験し、さらに近代には分割による国家の消滅という辛苦をなめてきた」[10]ポーランドをはじめとするあらゆる “小国” が、近代西洋的世界観を糾弾する法廷でもあったのだろう。
そして『ゲッセマネの祈り』[11]のごとく、眠り込んだ3人を尻目に赤松由美が独り佇んでいる。カラヴァッジョの『聖マタイの召命』のように差し込む上手奥のライトで横顔を照らされた彼女の渾身の台詞は、
「みおちゅもまた、ほんちちゅてきに、ほんちちゅてきに、よーち、なのかにゃ…? はにゃ⁉〔引用注:ミウォシュもまた、本質的に幼稚なのだろうか?〕」
突如として “幼稚さ” に襲われ、代わって白々と照らされた頭上のジャケットの権威は、
「ポーランドって…どこ?」[15]
それまでずっと大いびきをかいていた葉月の寝言に毀損された。それは、『フェルディドゥルケ』の最後の最後に書きつけられた捨て台詞「あばよ、ちばよ、あかんべえ、/読んだやつのあほうづら!/W・G」[16]のようで、
「造物主が熱愛したもの、それは至上で、完璧でそして複雑な物質だった、われわれは粗悪品に対して最優先を与える。材料の安さ、粗末さ、安っぽさ、われわれはこいつに有頂天になり、現を抜かす。分かるかな ―― と父は訊いた ―― 色紙、紙粘土、安ペンキ、麻屑、おが屑、そういうものに弱くて、夢中になってしまうことのほんとうの意味が?」[17]
現実ではなく芸術という「まがいもの」[18]に目が眩んでしまう私たちの “未熟” に、後足で砂をかけるようなものだったかもしれないが、
「ゴンブローヴィッチの全作品を通じて最大のキーワードである『未熟』とは『未同化』とも言い換えが可能だ。」[19]
しかつめらしくニヒリストをきどる "大人-子ども" たちに、胡乱な青二才のまま「孫国、孫国!」[20]とまぜっかえすこと。それこそが「人間をおこちゃまに変えてしまう」[21]文化-秩序をのらりくらりとかいくぐる道化[22]の軽業なのだろう。〈了〉
注
メインタイトルは、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(西成彦/訳,国書刊行会,p.89)に、サブタイトルは、アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巌谷國士/訳,岩波文庫,p.7)による。
[1]舞台美術や俳優の衣装等については、本稿の前段に当たる初日速報レビューを参照のこと。
[2]cf.,「転用とは、引用や、引用されるようになったというただそれだけの理由から常に偽造される理論的権威とは正反対のものである。それは、自己のコンテクストや自己の運動から、そして最終的には、包括的参照枠としての自らの時代からも、また正しく認識したものであれ錯誤によるものであれ、その参照枠の内部でのかつての的確な選択から切り離された断片である。」(ギー・ドゥボール/著,木下誠/訳『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫,p.186)
[3]初日速報レビューの注21を参照のこと。
[4]「満韓ところどころ」『夏目漱石全集 7』ちくま文庫,pp.436-437
[5]同上。
[6]床を踏み鳴らすその足音は、能の足拍子、あるいは巨大なハンマーで木箱を打ち鳴らすグスタフ・マーラー『交響曲第6番イ短調』(1904)の最終楽章を連想させた。
[7]『トランス=アトランティック』p.186
[8]埴谷雄高『死霊 Ⅲ』講談社文芸文庫,p.78
[9]同書,p.51
[10]今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社,p.320
[11]cf.,「弟子3人とともにオリーブの園に入ったキリストは、弟子たちに眠らずに待つように指示していたが、3人の弟子たちは眠ってしまう。」(高梨光正/解説『国立西洋美術館名作選』2013年,p.47)
[15]この最後の台詞は公演なかばから追加され、かつ、葉月の創意によって「よしっ! あっ…」(23日ソワレ)、「あっ、そろそろ…」(24日マチネ)、「ポーランドって…どこ?」(25日ソワレ・楽日)のように変わっていった。聞いたところでは、「はやく帰りたい」と言った回もあったようだ。
[16]ゴンブローヴィッチ/著,米川和夫/訳『フェルディドゥルケ』平凡社ライブラリー,p.484
[17]ブルーノ・シュルツ/著,工藤幸雄/訳「マネキン人形論あるいは創世記第二の書」『シュルツ全小説』平凡社ライブラリー,p.51
[18]上演台本より。
[19]西成彦「解説 ―― 非国民作家のエクソダス」『フェルディドゥルケ』p.528
[20]『トランス=アトランティック』p.140
[21]『フェルディドゥルケ』p.507
[22]初日速報レビューの冒頭および注1~4を参照のこと。
赤松由美
俳優。東京都八丈島出身。コニエレニ主宰。
1999年、劇団唐組入団。以降、2018年に退団するまで全公演に出演。唐十郎に師事。ポーランドの映画監督イエジー・スコリモフスキの映画に感銘を受け、コニエレニを設立。2022年、サイマル演劇団+コニエレニ「コスモス」に夫人役で出演。

サイマルコニ
エレニの稽古が始ま
ると、本番中まで、ひ
たすら足袋を洗う生活
になります。東京でも、
ワルシャワでも、ラドムで
も、眠くても疲れていても、
ずっと足袋を洗う旅をしてき
ました。
洗いながら、この舞台はなんな
んだろう。私はなぜこのセリフ
を言っているんだろう。ゴンブ
ロさんはこの日記で何を伝えた
かったんだろう。私にはまだわ
からない。それでも、今日もど
っこい今を生きています。
今回も本番用に、新しい真っ
白な足袋が一足支給される
ことでしょう。私の意気込
みは、足袋を真っ白に洗う
ことです。そして、その
足袋で立つ舞台を、た
くさんの方に見てい
ただけたら嬉し
いです。
葉月結子
高校演劇を経て上京、舞台芸術学院に入学。卒業後、池田聖智子ダンススタジオ「スフェール・グノジェンヌ」に入門。発声、呼吸法、歌唱を様々なアーティストに師事。サイマル演劇団の公演等に多数出演。および映像、パフォーマンス、コント等、国内外ジャンル問わず、フリーで活動を行なっている。

「私はカタストロフィ
の兆候よりも、むしろ新
たな可能性を探そうとして
いる」ーー前向きに過ごして
みようと思います。
大美穂
劇団唐組を経て現在フリーで活
動。
赤井康弘演出作品では『青い鳥』
『フェルディドゥルケ』
『新カザ・モノローグ2024』
『抵抗の詩人』一人芝居『仮の
スケッチ線』等に出演。
日本南京玉すだれ協会A級指導者
・八房海原美(やつふさ・うなみ)
として、町屋カルチャースクールで講師を担当。南京玉すだれの普及活動に取り組んでいる。

辻たくや
2011年舞踏家・大森政秀(天狼星堂主宰)に出会い舞踏を始める。
以後天狼星堂のメンバーとして全ての作品に参加。2013年より「起こっていることに生きている」をテーマにソロ活動開始。
またソロ活動以外にもチェリスト五十嵐あさかとのユニット「踊りと音」や哲学者荒谷大輔が主催する「リトルネロファクトリー」で共同作品の発表。現在は「地衣類」のような他の存在との共生を通した創作の形を模索中。

photo by bozzo
ゴンブロさん
の言葉は力強い。
それ以上に思想が強い。
未熟な青二才の私が発する
なんておこがましいが、そこ
に抗いながら、足掻きながら、
共存するために、他の「何か」
を会得するしかない。
「楽しい」時間ではなく、「面白い」時を過ごしていただけるよ
う、暗中模索。破壊と構築。全
員で日々研鑽し続けるしかな
い。
今年はポーランドに行けな
いけど、ゴンブロさんが、
ニヤニヤしながら観て
くれるといいな。
異国日記とい
う漫画が大好きな
のだが、「日記は 今
書きたいことを書け
ばいい 書きたくない
ことは書かなくていい
本当のことを書く必要もな
い」というセリフがある。
ゴンブローヴィチが亡命先の
アルゼンチンで書いた「日
記」。出版されているので人に読まれるのが前提ではあるが、何が書かれていて何が書
かれていないんだろう。
踊り手としてセリフを発し
ながらも、肉体を舞台に
どう置いていくかは新し
い挑戦です。どうぞ
よろしくお願いしま
す。
あかまつゆ
新しい旅人はたんに彼の見たものを書きとめるだけではない。彼は瞬間的かつ持続的な移動を通じて、自己の存在の反響をも書きしるそうとするのである。(ヴィクトル・セガレン)
演劇は革命である。喜劇ではない。
ユートピアであるカーニバルの終焉が、ポスト・
フェストム(=祭りのあと)であるのなら、それは
悲劇なのか。圧倒的な日常には戻らないという決意が我々にはある。そういう意味では喜劇だ。革命はカーニバルか。人民とともに踊らされているのか。
イメージが、サルトルの言うように行為ならば、演劇は、俳優の身振りは果たして行為か? または行為以上のものか。
芸術は須く批判であるべきだ。演劇は、ホワイトウォッシュされた人生を描くのではない。我々の人生は洗練された人生ではない。権威及び権威に従うものに抵抗しなければならないのだ。身体がエーテルを切り裂くとき、歪んだ空間は世界を変える。
ヴィトルト・ゴンブローヴィチ(1904−1969)現在のシフィェンティクシシュ県マウォシツェ生まれ。1933年処女作『成熟期の日記』を、37年には長編『フェルディドゥルケ』を発表。 1939年、旅客船「フロブリ号」にて外遊するも、ブエノスアイレス到着の7日後に祖国ポーランドにナチス軍が侵攻し、以後アルゼンチンで亡命生活をおくる。1960年『ポルノグラフィア』、1965年『コスモス』発表。1963年、ドイツに移住。1966年から1969年にかけて、4回ノーベル文学賞の候補となった。1969年、フランスで死去。
サイマル演劇団+コニエレニ アヴァンギャルドな芝居を数多く作り続けるサイマル演劇団と、ポーランド文化の紹介を主とするコニエレニが合同で、ポーランド演劇を上演するグループ。
2019年「狂人と尼僧」(ヴィトカツィ)を上演。2022年「コスモス」、2024年「フェルディドゥルケ」(ともにゴンブローヴィチ)を上演。2作品とも、ポーランド・ラドム市で行われた国際ゴンブローヴィチフェスティバルに招聘され、コスモスは準グランプリを受賞した。
『だからこそ、あなたがわたしに見せたものは、わたしにとっての重大な試練であり、誘惑なのです。―― サイマル演劇団+コニエレニ『日記』のための(稽古場)日記』(平岡希望)
「月曜日」
6月15日月曜日、板橋地域センター。車椅子に掛けた辻が、左手のハンドリムにゆっくりと力を込めながら口火を切った。上手より発せられたその号令[1]に、赤松は下手から「月曜日」と呼応して、「呼びかわしあうこだまの迷宮」[2]あるいは言葉で言葉を撃ち落とすような応酬が、赤井の近作に増えてきている[3]。そんなことが脳裏をよぎる間にも、「ブエノスアイレスからの16時間のバスの旅は、スピーカーから鳴り響くタンゴさえなければかなり耐えられるものだった」。…と、続けた辻が『日記』[4]の著者ゴンブローヴィチなのだろうか。「一九〇四年八月四日、ポーランド中部に位置するサンドーミェシュ地方のオパートゥフ郡マウォシーツェで、三男一女の末子として地主の家に生まれ」[5]、「一九三九年、世界大戦の勃発の一カ月まえ、」「たまたまおもむいたブエノスアイレスの地で開戦の報に接」し、「生涯を亡命者としてすごす」[6]こととなった、あの?
「金曜日〔……〕ミウォシュ[7]が小説『権力の奪取』でヨーロッパ文学賞を受賞したと知った。」
6月19日金曜日、熊野地域センター。葉月から受賞を報じられた辻の拍手は、あるときから嘲笑から痙攣へと変わって、あるいは4人全員がゴンブローヴィチなのかもしれない。19世紀のスイス人哲学者アミエルが、「この優れた友人、この指導者、勧告者、審判者、激励者、つまり自分の孤独を充たし自分の元気を附けるような言葉を掛けてくれる者」[8]として『日記』を著したように。
「私は砂漠で完全に独りきりだ。人を見たこともなければ、他の人間が存在しうるなどとは想像すらできない。そのまさに瞬間、私の視野に類似した存在が現れる。〔……〕同一でありながら異質な誰か。そして突然、私はまったく同じ瞬間に、驚くべき充足感と痛ましい分裂感を同時に味わう。〔……〕私は無限となり、自分自身にも予測不能となり、この異質でありながら新鮮で同一の力によって可能性の多重性を獲得したのだ。」
6月24日水曜日、サブテレニアン。衣装を調達し、音響の豊川を交えての通し稽古。赤松、葉月と身を寄せ合った大が独白するのは、「人類最後の生き残りのひとりであったとしてもそのひとが人間であるかぎりは複数的でありうる」[9]とも通じる台詞であり、赤井が稽古のたびに言及する「身体と精神の二重性」、あるいは「テクストへ引き寄せられる精神に、身体を拮抗させる」こととも重なるのではないか。
「西欧文明の擁護者としてのミウォシュよりも、西欧の対抗者でありライバルとしてのミウォシュの方がはるかに興味深いと言わざるを得ない。彼が西欧の作家たちとは異なる存在になろうとする時こそ、私にとって最も価値がある。彼の中に感じるのは、私自身の中に見出すものと同じだ ――」
6月25日木曜日、通し2回目。ミウォシュの中に複数性を見るゴンブローヴィチも、避けがたく複数性を宿している。そんな彼の思想を、さらにプリズムのごとく乱反射させるものこそ「テクストへ引き寄せられる精神に、身体を拮抗させ」続ける(60分弱の間、絶え間なく!)俳優4人だが、ここで「一九一八年の春」「交換傷病兵として釈放され、故郷に向かった」ゲオルク・ピヒラー[10]にも登場を願おう。医者の気まぐれで支給された唯一の読み物である「一九一六年十月十二日火曜日の新聞を二百七十回読んでいた」この男は、以後の現実をすべてこの新聞に基づいて解釈した。赤井流に言えば「テクストの奴隷」となった彼は、世界(との齟齬)を感じとる身体を失ったとも言えるだろう。だが、本人視点ではそれは天国かもしれないし、ひるがえって、身体を鋭敏化させ続ける俳優たちは、それ故に舞台上で絶えず居心地の悪さを覚えているのではないか。
「我々の感性が未だ十分な力で飛び立とうとしないのは、継承された言語の奴隷となっているからに過ぎない。だがそれは形態の裂け目から、増すばかりの力で表面へ押し出されつつある。」
6月26日金曜日、返し稽古と並行して舞台美術の制作が始まる。「そうです。もしも、地獄とは他人のことなのだとしたら、演劇とは他人めぐりをすることであり、〔……〕べつの言葉で言えば、地獄めぐりをするということなのです」[11]と寺山修司は語っているが、「地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになること」ではなく、「地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになること」[12]。言いかえれば、舞台上という「世界すべてを異郷と見なす者」[13]が俳優なのだろう。だとすれば観客はダンテのように、「私について来い、おまえを案内してやる。/ここからおまえを永劫の場所〔地獄〕へ連れて行く。」[14]と差し伸べられた手を、ためらわず握り返せばいい。〈本公演へ続く〉
注
タイトルは、チェスワフ・ミウォシュ「目」(小椋彩/訳,関口時正,沼野充義/編『チェスワフ・ミウォシュ詩集』成文社,p.8)による。
なお、引用したURLの最終閲覧日はすべて2026年6月28日である。
[1]文字通りゴンブローヴィチの日記である本作は、曜日によってシーンが変わっていく。それは、ミニマル・ミュージックの大家スティーヴ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽』において、時鐘めいたヴィブラフォンが反復パターンの推移を告げることと少し似ている。
[2]ミシェル・ド・セルトー/著,山田登世子/訳『日常的実践のポイエティーク』ちくま学芸文庫,p.249
[3]たとえば、「抵抗の詩人リーディング2 帰郷ノート」や「青い鳥」再演(ともに2025年)。
cf., http://subterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/11/post-172dde.html
[4]“Gombrowicz began contributing to Kultura in 1953 and the diary is essentially the body of work he had amassed for the publication up until his death in 1969.〔拙訳: ゴンブローヴィチが1953年から雑誌『クルトゥーラ』に寄稿し始めたこの『日記』は、1969年の彼の死まで同誌のために書き溜められた。〕”(https://culture.pl/en/article/gombrowiczs-diary-revived-in-new-english-edition)
なお、抄訳としては西成彦「日記/一九五三‐一九五六」(国書刊行会『トランス=アトランティック』所収)がある。
[5]ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ/著,米川和夫/訳『フェルディドゥルケ』平凡社ライブラリー,p.489
[6]同書,pp.494-495
[7]パリに亡命したポーランド人作家チェスワフ・ミウォシュ(1911-2004)のこと。『日記』において、ゴンブローヴィチはたびたび彼について言及している。
cf., https://culture.pl/jp/artist/czeslaw-milosz
[8]ベルナール・ブゥヴィエ/著,河野与一/訳「アンリ-フレデリク アミエル」『アミエルの日記(一)』岩波文庫,p.15
なお、引用にあたっては旧字体を新字体に改めている。
[9]國分功一郎「複数の人間、哲学者、善行を行う者 ―― アメコミヒーローより考察されるアーレントの『誰』概念」『現代思想2026年2月臨時増刊号 特集=ハンナ・アーレント -生誕120年-』青土社,p.41
cf., 田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店,p.62
[10]プラハ生まれのユダヤ系作家レオ・ペルッツ(1882-1957)が著した小説『一九一六年十月十二日火曜日』の主人公。垂野創一郎/訳『アンチクリストの誕生』ちくま文庫,p.50
[11]『寺山修司演劇論集』国文社,pp.66-67
[12]イタロ・カルヴィーノ/著,米川良夫/訳『見えない都市』河出文庫,p.215
[13]本公演のエピグラフより。
cf., 「したがって、〔エーリヒ・〕アウエルバッハが晩年の省察の結びに、聖ヴィクトルのフーゴーの『ディダスカリコン』から、含蓄に富んだ一節を引用しているのも故なきことではなかった。いわく、『故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である』と。」(エドワード・W・サイード/著,板垣雄三,杉田英明/監,今沢紀子/訳『オリエンタリズム 下』平凡社ライブラリー,p.138)
[14]ダンテ・アリギエーリ/作,平川祐弘/訳『神曲 地獄篇』河出文庫,p.17。罪深い生活の寓意たる暗い森でさまよっているところを「あらゆる詩人の名誉であり光である」詩人ウェルギリウスに助けられたダンテは、彼の導きに「どうかこの悪やこれ以上の悪を私が免れますよう/いまいわれた場所へ私をお連れください。」と応じる(cf., 同書,pp.8-19)。
サイマル演劇団旗揚げ30周年記念
板橋ビューネ2025/2026参加
「青い鳥」
原作/モーリス・メーテルリンク
翻訳/堀口大學(新潮社刊)
構成・演出・美術/赤井康弘(サイマル演劇団)
2025年12月11日(木)20時
2025年12月12日(金)15時/20時
2025年12月13日(土)13時/18時
2025年12月14日(日)13時/18時
開場は開演の20分前
劇場/サブテレニアン(東京都板橋区氷川町46-4 BF)
出演/葉月結子 赤松由美(コニエレニ) 大美穂 イトウエリ
料金/一般3500円 学生・障がい者2000円 高校生以下1000円
サイマル応援チケット10000円
サイマル《超》応援チケット30000円
チケット予約/こりっちhttps://stage.corich.jp/stage/403026
問い合わせ/info@subterranean.jp
080-4205-1050(赤井)
照明プラン/麗乃(ABC)
照明操作/こむぎ(あをともして)
音響/豊川涼太(街の星座)
衣装/サイマルお針子団
宣伝美術/伊東祐輔(おしゃれ紳士)
協力/日本文藝家協会
制作/サイマル制作団
企画・製作/赤井康弘
主催/サブテレニアン サイマル演劇団
これは、だれの「青い鳥」なのか?
誰もが知るメーテルリンクの名作を、〈贈与〉をテーマに他のテキストも組み込みながら、キメラのような作品として上演する。
劇場は特権的な空間である。演る者も見る者も特権的である。
劇場に集うものが、社会にいかなるものを還元できるかに焦点を当て、物語の消費ではない演劇を生み出していく。
ポスト・フェストゥム(=祭りのあと)には悲しみがあるか。これはカーニヴァルか革命か?
サイマル演劇団および赤井康弘のプロフィール/演出家・赤井康弘のほぼ一人劇団。1995年、仙台で旗揚げ。東京公演や東北地方でのツアーを行う。2000年、東京に拠点を移す。2006年、サブテレニアンをオープン。以降、古典作品を上演。俳優の身体性をを軸に、物語から距離を持ち、そこから離れようとする身体と近づいてしまう精神とのせめぎ合いを、硬質な身体と独特の発話で、主に不条理劇、前衛劇として上演。代表作に、円環運動を主とした「授業」、シュルレアリスムの代表作を扱った「ナジャ/狂った女たち」、ダダイズムと表現主義の境目に屹立した「ベビュカン」、感染症の蔓延する都市を描いた「Peste≠Peste」、無数のテキストを引用したキメラのような構造の「フェルディドゥルケ」等。2011年、利賀演劇人コンクール参加。2017年、韓国・礼唐国際舞台芸術祭に招聘。2022年、ポーランド・国際ゴンブローヴィッチフェスティバルに招聘。準グランプリを獲得。その他、サブテレニアンではプロデューサー及びキュレーターとして活動。古典だらけの国際演劇祭「板橋ビューネ」や、パフォーマンスアートを主に扱う「Marginal Man」等を企画、製作。海外の演劇祭の参加劇団のキュレーションも行う。

葉月結子
高校演劇を経て上京、舞台芸術学院に入学。卒業後、池田聖智子ダンススタジオ「スフェール・グノジェンヌ」に入門。発声、呼吸法、歌唱を様々なアーティストに師事。サイマル演劇団の公演等に多数出演。および映像、パフォーマンス、コント等、国内外ジャンル問わず、フリーで活動を行なっている。
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意気込んではいません。
みんな病気せずに、怪我もなく無事に公演が出来ますように、お祈り致します。

赤松由美(コニエレニ)
八丈島出身。劇団唐組で唐十郎に19年間師事。独立後コニエレニを設立。2022年ゴンブローヴィッチ国際演劇祭『コスモス』で準グランプリ受賞。スコリモフスキ監督の映画に出たい。特技はポーランド語(少し)、好きな食べ物はおじやとチーズ。
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ふたたび赤井版『青い鳥』に参加できてとても嬉しいです。舞台上で俳優達は関連がないように見えて、影響し合っています。音響も照明もセッションしています。そして私たちは意外とふざけていたりもするので、そこを見つけて楽しんでほしいです。動画やネットでは体験できない世界を味わってください。

大美穂
劇団唐組を経て現在フリーで活動。
赤井康弘演出作品では『青い鳥』『フェルディドゥルケ』『新カザ・モノローグ2024』『抵抗の詩人』一人芝居『仮のスケッチ線』等に出演。
日本南京玉すだれ協会A級指導者・八房海原美(やつふさ・うなみ)として、町屋カルチャースクールで講師を担当。南京玉すだれの普及活動に取り組んでいる。
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ひょんなご縁から二年前の『青い鳥』に参加することになり、そこからサイマル演劇団の作品に触れる機会が一気に広がりました。
私にとって思い入れの深い作品を、今回はさらにパワーアップしてお届けします。

イトウエリ
兵庫県神戸市出身。
中学・高校時はソフトボール部に所属。2006年より関西大学劇団万絵巻で芝居を始め、劇団そとばこまち、空の驛舎を経て、現在はフリーとして活動。近年では、2024年に出演した楽園王の「風」が初代茨城劇王に。
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これまで携わってきた現場とは創り方も目的地も全く異なり、正直なところ、少し戸惑う気持ちはあります。私以外のキャスト陣は2023年の初演より続投され、演出の赤井さんと創作を重ねてこられた頼れるメンバーです。先輩方の胸を借りて、とにかくトライしていきたいと思います。
演劇は批評を含んだものでなけれなばならないと思うんですよね。
演劇は身体による芸術表現なわけでして、文学の奴隷であってはいけない、文学から自立しなければならない。
そのためにも、演出も俳優の演技も批評態として働かなければならいのではないかと。
演技は批評態であるということはどういうことか?
俳優は戯曲の言葉を身体に落とし、発話する。
その過程で俳優の精神には意味がまとわりつく。
その意味は、戯曲が向けられた方向性、距離性に絡め取られる。
俳優はセリフと距離を取らなければならない。
台詞に依存してしまっては、文学への隷属化が始まる。
戯曲を批評し、身体を使って翻訳しなければならないのではないかと。
台詞に擦り寄ってしまう精神と、それに抗う身体。
この強い緊張で拮抗することが、満ちた空間を作ることになって、それが演劇と呼ばれるのではないかと。(赤井康弘)
「青い鳥」劇評
『目覚めた時、夢の中で歌ったことすべてが記憶に残っていた。―― サイマル演劇団旗揚げ30周年記念「青い鳥」によせて』
(劇評家/ライター 平岡希望)
「こんな悪夢を見たのを思い出しました。そう、あれが起きたのはセラーノ街でした、(……)風景はずいぶん違っていました。ですが私にはそれが、パレルモ地区にある馴染みのセラーノ街であることが分かっていたのです。」【1】
ボルヘスの夢の半分。そこに生じた "違うけれど同じ" 感覚とは対照的に、2年ぶりの『青い鳥』が私に “同じだけど違う” 印象を喚起したのは、
「ミチル[=赤松由美]、チルチル[=渡邊清楓]、妖女[=葉月結子]の次(すなわち最後)に現れ、足を引き摺りながらタイプライターの前に向かった、灰色の背広の男=大美穂は、辿り着くと左手に持っていた古式ゆかしい飴色のトランクケースを傍らに下ろして、(……)」【2】
チルチル役が前回の渡邊からイトウエリにバトンタッチされたためでもあり、セリフ順で言えばトップバッターに、登場順でも板付きの赤松に次ぐ2番目へと変更された大によって、
「芸術は長く、われらの生命は、短いのでございます。」【3】
新たにヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』の一節が引用されたためでもあるが、本質的にはそのどちらでもなかった。そもそも、サイマル演劇団主宰・赤井康弘演出の『青い鳥』初演において、
「『幸福ですって?』と美しい鳥は言い、金色の口ばしで笑った。『幸福はね、どこにでも、山の中にも、谷の中にも、花の中にも、水晶の中にもあるの』(……)すると、驚いたことに、鳥はこんどは多彩な花になっていた。(……)ところが、そのすぐあと、鳥の花は花びらと花糸とを動かした。花であることに早くも飽きたのだった。もう根がなくなっていた。軽くからだを動かし、ゆっくりゆらゆらと舞いあがると、輝くチョウチョウになった。(……)しかし新しい蝶は、陽気な多彩な鳥の花のチョウチョウは、(……)輝く翼を少し震わせたかと思うと、たちまち色美しい水晶に変わっていた。」【4】
俳優4人は飽きっぽい「陽気な多彩な鳥の花のチョウチョウ」のごとく、
「しかし、『あの鳥、取られなかったかい?』と、妖女から変じた『夜』[=葉月]が(……)問いかけると、『大丈夫。あそこの月の光の上の方にいますよ。あんまり高いところにいたから、手が届かなかったものとみえますね。』と応じた男[=大]はこの瞬間は『ネコ』だった、ネコは原作『青い鳥』でずっとチルチル・ミチルの旅に同道するが、保身のために裏切っている。この一言の間止まっていた手はすぐさまタイプを再開し、男は、『声が次第に鳴り止むと、』から始まる別の一節を引用して(『グラディーヴァ/妄想と夢』,平凡社ライブラリー,p.76)、『その白いお花はわたしのために持ってきてくれたの?』と、主人公であるノルベルト・ハーノルトに語り掛ける "グラディーヴァ" を、男でもネコでもない声色で一瞬出現させたかと思うと、すぐさまチルチルとミチルの『ぼくは井戸に降りていきたい…』が始まる。」【5】
己のアイデンティティを切り替えていったのだが、今回はそこに、
「私はひとりの友人に出会います、見知らぬ友人です、(……)彼の手は見えない、懐に隠してしまっている。私は彼を抱擁し、助けてやる必要を感じました。『可哀そうな誰それよ、一体どうしたのかね?こんなに変わり果てて!』彼が答えました。『ああ、すっかり変わってしまった。』私はそっと彼の手を取り出しました。見るとそれは鳥の足だったのです。」【6】
ボルヘスの夢のもう半分に現れた “鳥になりつつある男”、あるいは「前方は獅子、真中は牝山羊、後ろは大蛇のかたちをし、口から炎を吐き出す」とされるキマイラ【7】のように、アイデンティティが侵蝕・混淆されていく “悪夢的な” 印象が付加されていた。そうした気配は、
「夢を見る人間はこのすべてを、神がその広大無辺な永遠から宇宙の変転の一切を見るごとく、一目で見てしまいます。すると目覚めるときどんなことが起こるか。私たちは連続的な生活に馴れ親しんでいるので、自分の夢に叙述的形式を与えようとするのです。ところが私たちの夢では複数のことが同時に生起します。ごく単純な例を挙げてみましょう。この私がひとりの人間の夢を見るとします。単なる人の姿(えらく貧しい夢ですが)です。その直後に一本の木の夢を見るとします。そして目が覚めたとき、私は、ごく単純なその夢に、もともとはなかった複雑さを与えることができる。木に変身する人間、木だった人間を夢に見たと思うことができます。」【8】
舞台上で夢のごとく「複数のことが同時に生起していた」ために醸成されたのだろう。もちろんそれ自体は、前回の『青い鳥』(2023年)をはじめ『フェルディドゥルケ』や『シュルレアリスム/宣言』(ともに2024年初演)といった赤井の近作における構成要素であったが、それらは主に、
[A]身体性(e.g., 俳優全員が、シーンに関係なく上演中ほぼずっと舞台に在り続けること)
[B]台詞と身ぶりの連動(e.g., 大の「左手は並外れて襞の多い服を軽くつまみ上げており、……」【9】と同時に、赤松が左手で衣装の裾を軽くつまみ上げること)
[C]俳優個々人内の経時的な推移(e.g., 大が、一場面においてベンヤミン→『青い鳥』のネコ→グラディーヴァの声色を演じ分けたこと)
上のような三方向からアプローチされてきたのではないか。そして今回の『青い鳥』において試みられたことは、第4の方法論というよりもむしろ、
「ある意味では、現実と『超現実』とはつながっていると考えたほうがいいんですね。つまり、度合のちがいなんじゃないか。たとえば『超スピード』といった場合に、これは猛烈に速いスピードであるわけで、普通のスピードとのあいだには、段階の差しかありません。それとおなじように、われわれが『現実』だと思いこまされているものと『超現実』とのあいだには、度合や段階の差しかなくて、壁だとか柵だとかはない。」 【10】
「[アンドレ・]ブルトンと[フィリップ・]スーポーは、例えば、V1、V2、V3...といった具合に自動記述のスピードを操作することで文学上の実験を行ったようだが(cf., 同書 pp.38-42)、(……)巖谷氏の分析によれば、比較的遅いスピードで行われた自動記述では『ジュ(je=わたし)』や過去形が頻出するのに対し、速くするごとに時制は現在となり『わたし』も消える(cf., 同書 pp.42-51)。そして現れるのは『オン(on=人々、だれか)』という不定代名詞で、(……)」【11】
[C]における「経時的な推移」のテンポをC1、C2、C3…といった具合に速くしていく類のもので、それによって個々の配役という「ジュ(je=わたし)」が “痙攣” し、「オン(on=人々、だれか)」へと変容されていったのではないか。そうした経過の一例は、次のような原作『青い鳥』に基づいた一幕、
「チルチル[=イトウ] でもぼく、その鳥どこにいるか知らないもの。
妖女[=葉月] わたしだって知らないさ。だから探してきてもらいたいんだよ。歌を歌う草の方はどうしてもなければないで済ませるが、青い鳥の方はぜひとも入り用なんだからね。わたしの小さい娘がひどく患っていて、その娘のためなんだよ。
チルチル その娘さん、どうしたの?
妖女 さあ、よくわからないがね。きっと幸福になりたいんだろうよ。
チルチル そう。
妖女 お前たち、わたしが誰だかわかるかね?
ミチル[=赤松] お隣のベルランゴーおばさんにすこうし似てるようだけど。
妖女 似てるもんか。ちっとも似てやしないよ。とんでもない。わたしは妖女のベリリウンヌだよ。
ミチル ふうん、そうなの。」【12】
その最中もタイプライターを打ち続けていた大に見ることができた。このシーンに先立って、彼女は「サン・アントニオを離れてイビサの町へ移るか、イビサの島そのものを去ることになるだろう。」【13】と落ち着いた声で背広の男=ヴァルター・ベンヤミンを演じていたのだが、チルチルと妖女の「その娘さん、どうしたの?」「さあ、よくわからないがね。きっと幸福になりたいんだろうよ。」 という “噂話” に呼び寄せられたかのように、「ええ、これでいいのよ。」とやさしげにつぶやいた(が、彼女はその場にいないのだから、2人は当然気づかない)。本来、この台詞が発せられるのは終盤で、「このぐらい青ければいいの?」【14】と問うたチルチルに娘=大が返す一言だ。これはいわば、
「サルデーニャの王の代理であるサン=レミーは、その限られた君主としての責任によって最も有害なペストに対しておそらく敏感になっていて、特別に痛ましい夢を見た。彼は自分がペストに罹り、その小さな国がペストによって荒廃させられるのを見たのである。(……)一カ月前からベイルートをあとにしていた一艘の船グラン=サン=タントワーヌ号は、通過の許可を求め、上陸することを申し出る。そのとき彼は気違いじみた命令を、民衆にも取り巻きにも、常軌を逸していて、不条理で、馬鹿げていると思われた命令を下す。直ちに、彼は汚染されていると判断した船のほうへ水先案内の小舟と数人の男たちを急がせ、グラン=サン=タントワーヌ号に対して、すぐさま舳先を廻し、帆をあげて町から離れなければ、大砲で撃沈するという命令を下すのだ。」【15】
2つの役(ベンヤミンと『青い鳥』の娘)を横断する形で放たれた前触れであった。本作にはこうした “予兆” とともに “エコー”、あるいは “デジャブ” も散りばめられており、
「ミチル[=赤松] それから、あの顔を隠しているお子さんは? どうしてあんな風にヴェールを被ってるんですか? 病気なんですか? なんという名前ですか?
夜[=葉月] あれは『眠り』の妹でね。名前は言わないほうがいいだろうよ。
チルチル[=イトウ] どうして?
夜 誰でも聞きたくないような名前だからね。まあ、ほかの話をしようよ。」【16】
話を変えようとする「夜」に応じるように、やはりこの場にはいないはずの大がこぼした「ふうん、そうなの。」は、「わたしは妖女のベリリウンヌだよ。」と名乗る葉月にミチル=赤松が返した相槌だった【17】。4人の俳優は、自らの役を演じながらも、その折々で自らの、あるいは相手の台詞を “引用” したが、それらはむしろ、
「転用とは、引用や、引用されるようになったというただそれだけの理由から常に偽造される理論的権威とは正反対のものである。それは、自己のコンテクストや自己の運動から、そして最終的には、包括的参照枠としての自らの時代からも、また正しく認識したものであれ錯誤によるものであれ、その参照枠の内部でのかつての的確な選択から切り離された断片である。転用とは、反 - イデオロギーの流動的言語なのである。それは、自らを保証するものが自らのなかに ―― 決定的に ―― あるとは断言できないことを自覚したコミュニケーションのなかに現れる。」【18】
「自己のコンテクストや自己の運動から、そして最終的には、包括的参照枠としての自らの時代からも」「切り離された断片」であって、「ランボー、ロルカ、ベンヤミン等数多のテクストを組み込んだキメラのような作品」【19】である本作の構造そのものが、俳優各人の内奥においても乱反射し、舞台全体で「断片から断片へ文章が鏡のように反映し合い、互いが弁証法的な対話を交わ」【20】していた証左なのではないか。そして、発話者や時系列という “コンテクスト、運動、包括的参照枠” から言葉を切り離すということ、すなわち、
「近代の知の慣性的な認識作用のなかで、強く時間化されてしまった私たちの歴史意識を、あらたに珊瑚の海へと突き落とし、大洋と汀にはたらく水の攪拌と浸透の力によって空間化すること。意味の発生を、過去と現在を結ぶ通時的因果関係と合理的説明体系に求めるのではなく、空間的な可塑性をもった具体的な広がりのなかでのものごとの偶発的な出逢いの詩学的な強度に求めること。(……)アナクロニスム(時間錯誤)の自覚的実践は、歴史を空間に向かって拓くときに得られるアナロキスム(空間錯誤)を同時に要請する。」【21】
「アナクロニスム(時間錯誤)の自覚的実践は、歴史を空間に向かって拓くときに得られるアナロキスム(空間錯誤)を同時に要請する」はずで、観客席という汀からあらためて眺めた舞台は、
「この海は長く色々な人間を見ていますから、あんまりじっと眺めていると私たちにその歴史を投げかけてきます。ローマ帝国時代か、ビザンチンの頃か、ユーゴスラビア人民軍の頃か、アドリア海にしてみれば一瞬のことです。」【22】
「二十世紀以後の芸術の鍵を握るのは夢の論理だろう。われわれの覚醒時の現実が、計測可能な時間・空間と、存在の同一性に立っているとしたら、夢では時間も空間も混乱し、様々な同一性が自由に置き換えられたり入り混じったりする。」【23】
「時間も空間も混乱し、様々な同一性が自由に置き換えられたり入り混じったりする」(悪)夢のような空間だった。そしてそこでは、チルチルとミチルと妖女(あるいは「夜」、そして「光」)の掛け合いが、グラディーヴァに魅了されたノルベルト・ハーノルト【24】の賛美が、手紙をしたためるベンヤミンのタイプ音が、ロルカたちの詩句が、葉月の「赤松由美…イトウエリ…豊川涼太【25】…」というメタ的なつぶやきが、ピアノの旋律が、開演前から鳴り続けているメトロノームが「一つの『そうではない』を次の『そうではない』で塗りつぶす」【26】かのごとく一斉にこだましていて、「すべての力が合流してエネルギーの格闘をくりひろげる、そんな樹木か茂みのような場所」【27】で、私たち観客が呑まれずにいるためには、
「暗闇に幼子がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。」【28】
「心をなごませようと、乳母だった老婆にならったふるい弔いの歌をかれは唄いだした。その長い通廊のアーチの連なりがかれの声を一〇回繰り返しこだましてきた。」【29】
なによりも歌を口ずさむように考え続けることが必要で、そしてそれは、
「生ある者の地獄とは未来における何事かではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます、すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます。」【30】
「すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになる」ために、一編の詩を紡ぐことでもあったのだろう。〈了〉
註
タイトルは、ホルヘ・ルイス・ボルヘス/著,堀内研二/訳『夢の本』河出文庫,p.113 による。
【1】ホルヘ・ルイス・ボルヘス/著,野谷文昭/訳『七つの夜』岩波文庫,p.60
【2】2年前の『青い鳥』によせた拙稿『あなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。』より。https://www.subterranean.jp/review
【3】手元の新潮文庫版(高橋義孝/訳『ファウスト[一]』)では「技芸の道は長く、人生は短し」(p.51)と訳されている。なお、この一節はワーグネルの台詞だが、語順こそ入れ替わっているものの、メフィストーフェレスも「歳月は短く、技芸の道は長し」(p.135)と同様の箴言を述べている。
【4】ヘルマン・ヘッセ/著,高橋健二/訳「ピクトルの変身」『メルヒェン』新潮文庫,pp.199-200
【5】拙稿より。
【6】『七つの夜』pp.60-61
【7】ホルヘ・ルイス・ボルヘス/著,柳瀬尚紀/訳『幻獣辞典』河出文庫,p.68
【8】『七つの夜』pp.48-49
【9】ヴィルヘルム・イェンゼン/著,種村季弘/訳「グラディーヴァ」『グラディーヴァ/妄想と夢』平凡社ライブラリー,p.56
【10】巖谷國士『シュルレアリスムとは何か —— 超現実的講義』ちくま学芸文庫,pp.22-23
【11】平岡希望『そんなわけで、七面鳥は堤防の上にとどまってしまい、その日からというもの、学校に行くあの子をこわがらせている。 ― サイマル演劇団「シュルレアリスム/宣言」の稽古に寄せて』より。なお、引用中の「同書」は『シュルレアリスムとは何か』を指している。http://subterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-d61e14.html
【12】モーリス・メーテルリンク/著 ,堀口大學/訳『青い鳥』新潮文庫,pp.26-27
【13】ゲルショム・ショーレム/編,山本尤/訳『叢書・ウニベルシタス 326 ベンヤミン―ショーレム往復書簡〈新装版〉』法政大学出版局,p.82。原文では、「サン・アントニオを離れてイビーサの町へ移るか、イビーサの島そのものを去ることになろう。」となっている。なお、背広の男=大がベンヤミンで(も)あることは、劇中において特段明示されていない。
【14】『青い鳥』p.235
【15】アントナン・アルトー/著,鈴木創士/訳『演劇とその分身』河出文庫,pp.20-21
【16】『青い鳥』p.82
【17】註【12】を参照のこと。
【18】ギー・ドゥボール/著,木下誠/訳『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫,p.186
【19】赤井自身が、SNSなどで本作(2年前の初演も含む)を評した言葉より。なお、『フェルディドゥルケ』や『ナジャ/狂った女たち』(2016年初演)、「ベビュカン」(2018年初演)などについても「キメラのような」と形容している。
【20】木下誠「訳者解題 付『シチュアシオニスト・インタナショナル』の歴史」『スペクタクルの社会』p.204
【21】今福龍太『群島-世界論[パルティータⅡ]』水声社, pp.69-70
【22】いとうせいこう/編『存在しない小説』講談社文庫,p.281
【23】管啓次郎「解説 ―― ペソア・プロジェクト、あるいは他人として夢を見ること」『存在しない小説』p.315
【24】『グラディーヴァ』の主人公。主に大が台詞を担当していた。
【25】本作の音響スタッフであり、劇団「街の星座」を主宰する演出家・劇作家。
【26】多和田葉子「ミス転換の不思議な赤」『穴あきエフの初恋祭り』新潮文庫,p.94
【27】ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ/著,宇野邦一,小沢秋広,田中敏彦,豊崎光一,宮林寛,守中高明/訳『千のプラトー 中 資本主義と分裂症』河出文庫,p.340
【28】同書,p.317
【29】アントニオ・タブッキ/著,和田忠彦/訳『夢のなかの夢』岩波文庫,p.16
【30】イタロ・カルヴィーノ/著,米川良夫/訳『見えない都市』河出文庫,pp.214-215
過去のレビュー
サイマル演劇団 シュルレアリスム/宣言 原作︎/アンドレ・ブルトン 翻訳︎/巖谷國士(「シュルレアリスム宣言 溶ける魚」岩波書店) 構成・演出・美術/赤井康弘 韓国・富川 富川市民会館(第7回ファンタスティックシアターフェスティバル招聘) 2024年11月29日(金)19時 東京・サブテレニアン(板橋ビューネ2024/2025参加) 2024年12月5日(木)20時 2024年12月6日(金)15時︎/20時 2024年12月7日(土)13時/18時 2024年12月8日(日)13時/18時 出演/葉月結子 大美穂(イナホノウミ) 永守輝如 料金/一般3500円 学生・障害者割/2000円 サイマル応援チケット10000円 チケット予約/https://stage.corich.jp/stage/341711 お問合せ/info@subterranean.jp 080-4205-1050(赤井) 照明︎/麗乃(あをともして) 音響︎/豊川涼太(街の星座) 衣装/サイマルお針子団 字幕/梅村梨恵 舞台監督︎/大山ドバト 宣伝美術︎/伊東祐輔(おしゃれ紳士) 制作/竹岡直紀(劇団俳優難民組合) 赤松由美(コニエレニ) さたけれいこ(サブテレニアン) 著作権代理︎︎/フランス著作権事務所 企画・製作/赤井康弘 協力︎/岩波書店 主催/サブテレニアン サイマル演劇団 上演時間︎/70分 アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」発刊100周年を迎え、アバンギャルドの作品で実績を積むサイマル演劇団・赤井康弘が、舞台化に臨む。 「我の御身が痙攣する複数性」を瞠目に、夢か現か、身体と精神の境界で、現実が曖昧に溶けてゆく。 100年前、世界を揺るがす「宣言」が発表された。 戦間期に発表されたそれは、100年後の現在にでも影響がある。 この舞台は事件になるのか? 新たな「宣言」か? 世界は一編の詩に近づくべくできている 【サイマル演劇団及び赤井康弘プロフィール】 演出家・赤井康弘のほぼ一人劇団。1995年、仙台で旗揚げ。東京公演や東北地方でのツアーを行う。 2000年、東京に拠点を移す。2006年、サブテレニアンを開館。以降、古典作品を上演。俳優の身体性を軸に、物語から距離を持ち、そこから離れようとする身体と近づいてしまう精神とのせめぎ合いを、硬質な身体と独特の発話で、主に不条理劇、前衛劇として上演。 代表作に、円環運動を主とした「授業」(E・イヨネスコ)、シュルレアリスムの代表的小説を扱った「ナジャ/狂った女たち」(A・ブルトン)、ダダイズムと表現主義の境目に屹立した「ベビュカン」(C・アインシュタイン)、引用で溢れたキメラのようなテキストで、社会批判に満ちた「フェルディドゥルケ」(W・ゴンブローヴィッチ)等。 2011年、利賀演劇人コンクール参加。2017年には韓国・礼唐国際演劇祭に招聘される。2022年、2024年、ポーランド・国際ゴンブローヴィッチ演劇祭に招聘。2022年、準グランプリを獲得。 その他、サブテレニアンではプロデューサー及びキュレーターとしても活動。古典だらけの演劇祭「板橋ビューネ」や、パフォーマンス・アートを主に扱う「Marginal Man」等を企画、製作。海外の演劇祭の参加劇団のキュレーションも行う。
『震える右手へ添えた左手には、「野をひらく鍵」が握られている ― サイマル演劇団「シ ュルレアリスム/宣言」東京公演に寄せて』(劇評家/ライター 平岡希望) カチッ、カチッ...と刻まれるメトロノームの無機質な音と、自分の鼓動とのずれを感じな がら舞台下手を見る。空っぽの車椅子の肘掛けでは⻘白い光が憩い、その前を横切った葉月 結子は白い傘を持っていた。まっすぐ上手前まで向かった彼女がおもむろに、丈の短い、日 傘と思しきそれを開いたのと同じ頃、上手奥から少し中央へ寄ったあたりに立った永守輝 如を、オレンジがかったライトが染める。彼の全身はその数瞬前から痙攣していた。だらり と下げた両腕、こちらに向かってゆるく開いた右掌はかすかに震えており、 「スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。」 「サドはサディズムにおいてシュルレアリストである。」 (A.ブルトン・著,巖谷國士・訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫,p.46 より。 以降の引用はページ数のみを示し、台詞の場合は、上演台本に準拠した表記とする。) と、“過去のシュルレアリスト” たちを列挙し始めるが、 「シャトーブリヤンはエグゾディスムにおいてシュルレアリストである。」(同) の「エグゾ」あたりからは、痙攣の波に溺れるがごとく、発話もスムーズさを失う。その時、 薄闇の中でゆっくりと蠢いていた葉月演じる【女】が、両手で持った傘を勢いよく振り下ろ した。 永守演じる【男】は、上演時間約七十分の間、絶えず痙攣に抗いながら言葉を発していく ことになるのだが、その背中を支えるかのように、弦楽合奏の、⻑くなめらかな旋律が流れ る。それはロンドン交響楽団による “ヘンデルのラルゴ” で、J.S.バッハの《マタイ受難曲》 においても、受難を宿命づけられた “イエス・キリスト” は、常にたゆたうような弦楽合奏 を伴う。【男】もまた、ある種の刑に処されているのかも知れない、語り終えるや否やライ トは消え、ベールのように降り注いでいた管楽器の音も断たれるが、なお震え続けている。 【男】が痙攣しながら語り、【女】が傘を抱いていたその間にも車椅子の前では大美穂が 身体をゆっくりと揺らめかせていた。そして一転明るくなった下手で、オレンジのスカーフ、 そしてオレンジのレンズを輝かせた彼女は、右手で眼鏡の “つる” をつまみ、前傾気味にし ゃがみながら、 「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。」(p.87) と語り始める。“ラルゴ” の余韻を叩き切るように、反復的なピアノと弦楽の旋律が、大演 じる【B】の言葉に随行するがそれはスティーヴ・ライヒの《Octet》で、 「けがれた夜、花々の夜、喘ぎの夜、酔わせる夜、音のない夜よ、」(p.114) を、【B】は「けがれたよるはなばなのよるあえ」「ぎのよるよわせるよるおと」「のないよる よ、」といった具合に、粘性の高い川が、時折うねるかのように発話した。 「狂人たちが監禁されるのは法律上とがめられるべき二、三の行為のせいにすぎず、そうい う行為さえおかさなければ、彼らの自由は危険にさらされるはずもないだろう。」(p.10) という台詞は【男】のものだが、【B】もまた、痙攣する【男】や傘に執着する【女】と共に “狂人” なのかも知れない。しかし、彼らを見つめる私たちもまた例外ではない、【女】の傘 が風を孕み、音を生んだ。 上演前から止むことなく鳴り続けるメトロノームのごとく、【B】は自動記述による小話 集『溶ける魚』の、【男】は『溶ける魚』の “序文” として書かれた『シュルレアリスム宣 言』の言葉を交互に語る。それに伴って音楽も照明も切り替わっていくが、その間、【女】 は一言も喋らず時に傘を振り回し、時に愛撫しながら、徐々に舞台中央へにじり寄っていた。 そして、ギュゥ、という擦過音を立てながら抱き、そっと置いた傘はぎこちない楕円に歪ん でいて、“史上初のシュルレアリスム映画” と称される『貝殻と僧侶』の、フラスコから黑 い液体を注がれた貝殻みたいだ。 【女】が、慄いたように “貝殻” を見つめる一瞬にも、スカーフを首元まで下ろした【B】 は、 「むかしむかし、ある堤防の上に、一羽の七面鳥がおりました。」(p.170) と語りながら車椅子の背後を決然と進み、ある境界を冒した警告のごとく、《Octet》の中に “ラルゴ” が混ざり、歪む。バタンッ、という鈍い音は【女】の身体が地面に “墜落” した音 で、【B】は、【男】の震える右腕に自らの左腕を重ねる。【男】はなす術もなくただ身をよじ らせ、 「私はいつも、夜、どこかの森で、ひとりの美しい裸の女と出くわすことを、信じがたいほ どに願ってきた。(...)もしもそうなったら、すべてはぴたりと停止してしまったことだろ う。(...)私はなによりも、このように機転がまるで利かなくなりそうな状況が大好きだ。 きっと逃げ出す機転すら利かなくなっただろう。」 (A.ブルトン・著,巖谷國士・訳『ナジャ』岩波文庫,pp.45-46) という一節を私が思い出している間にも、【B】は、彼を起点にゆっくりと公転しながら語り 続ける。 「神父はムール貝のなかで歌い、ムール貝は岩のなかで歌い、岩は海のなかで歌い、海は海 のなかで歌っていた。」(p.170) の一言が、再び指さした貝殻=傘の傍らに【女】の姿はすでにない、彼女は這い上がるよう に車椅子へと乗り込んでいた。 語り終えるや否や【B】は【男】から飛びすさり、【女】はだらんと横たえていた頭部を起 こす。下手の本棚が照らし出され、その反射光を燐光のごとく右頬に受けながら口を開いた 【女】は、 「百科辞典。ある種の連想形式のすぐれた現実性やシュル心のメカニズムを決定的に破産 させ、レアリスムはそれまでおろされてそかにきた夢の全能や、思考の無欲無私な活動など への頼信におく基礎を。他のあらゆる人生の主要な諸問題の解決においてめざすことをそ れらにかわるとって。」 と、抑揚も、発声も、感情も調節できていない人形のように話し、それは『宣言』の一節(p.46) をなぞりながらも、明らかに壊れている。 「美は、ぎくしゃくした動きの連続から成るものだ。その動きの多くはほとんど重要ではな いが、それらがいつかひとつの〈ぎくしゃくした動き〉をひきおこし、それこそが重要なも のになるということを私たちは知っている。」(『ナジャ』pp.189-190) に添えられた巖谷國士氏の訳注によれば、〈ぎくしゃくした動き〉の原語は saccade だ。そ の言葉が私の記憶を揺さぶるのは、眼球運動においても「サッケード」という急速な視線の 動きがあるからで、たしか心理学実験演習の一環として、測定したことがあった。 交互に照らされ、語る【男】と【B】を追う視線の動きこそまさにサッケードで、そこに 加わった【女】とで描かれる三角形は、観客の目を痙攣のごとく錯綜させる。 「私にとってはるかに重大に思われるのは、すでにじゅうぶんおわかりいただいておるよ うに、シュルレアリスムの行動への適用ということである。」(p.78) とブルトンは言っているが、美もまたそうではないか。もちろん、演出家、俳優、音響、照 明...が作り出す部分も多くを占めるが、自分の感じる美は、最終的には自分で作るしかない のではないか。目を、全身を “痙攣” させながら。 二度、三度と話すたびに調律され始めた【女】の語りを、私は “直って/治って” きたと 思ったがそれは私(を含む観客)がすでにある不自由の中にいるからかも知れない、 「『頭足類は四足獣よりも、進化をきらう理由をいっそう多くもっている』と。マックス・ モリーズ」(p.70) において、「いっそう多く持っている」「とマ」...と言いながら【女】は両の手で肘掛けを掴 む。そして「クス」「クス」ッ...と力を込めて立ち上がろうとするが彼女はすでに立ち上が れない、言い添えた「モリーズ」に力はなかった。 【男】は、いや増す痙攣のために時折倒れこみそうで、傘を拾った【B】は、それで何か を掬う所作をしたり、杖のように突いたりしている。そもそも彼女はオレンジのレンズ越し にしか世界を捉えられず、三人は共に不自由だ。しかし、 「現代の人間はもともと自由ではない。(...)外から与えられた自由だとか、自由な国や社 会だとかはまやかしである。自由はむしろ不自由であることの自覚から始まる。不自由を自 覚して自由を求める行動こそが、今日では自由の証になる。」(巖谷國士『シュルレアリスム と「自由」』Galerie LIBRAIRIE6) のであれば、三人は、 「パリの各所の壁には、白い覆面をし、左の手には野をひらく鍵をもつ、ひとりの男の人相 書きがはりめぐされていた。その男、それは、私だったのである。」(p.200) と【B】が語るところの、「野をひらく鍵」を左手に持っているのだろう(cf.,p.264 訳注「二 〇〇1」)。 そして、倒れ込んでいた【男】は不意に立ち上がり、痙攣など微塵も感じさせない足取り で下手袖へ消え、【B】は掲げていた傘を下ろし眼鏡を外す。そして【女】も静かに立ち上が り、一歩、二歩と車椅子のフットレストを跨ぐ。戻って来た【男】は黑いジャケットを着て おり、 「ごらんになれますか、ここにおられる紳士淑女のみなさんのむこうに、ほらサンルイ島が 見えるでしょう?」(p.182) と “ぬけぬけと” 応じるが、彼はもはや【男】ではなく【サタン】で、 「窓はひらかれています。花々の香気がただよいます。」(同) と口火を切った【女】は【エレーヌ】であり【リュシー】だった。持っていた傘を石突きか ら垂直に落とし、 「きみだとわかっていたよ、ここでのはげしい快楽のまにまに。」(同) と【リュシー】を “告発” した【B】もまた【マルク】となっていて、『溶ける魚』に収録さ れた会話劇(pp.181-186)が、突如、始まっていた。しかし、彼らはこれまでの “縛め” か ら解き放たれたのだろうか、 「そして、ほらあそこに、観客席の五列目の後ろに、売淫にふけっている真っ⻘なひとりの 女が見えます。おかしなことに、あのひと、翼があるんです。」(p.184) という【リュシー】の「真っ⻘な」のあたりで、車椅子に掛けていた【サタン】は、震える 右手に、これまで【男】がそうしてきたように左手を添えた。そして立ち上がると、ジャケ ットの内ポケットから二つ折りのカードを取り出し、 「淑女ならびに紳士のみなさま、ただいまお目にかける光栄に浴しました一幕は、わたくし めの作にございます。」(同) と語り始めて、ここにおける「一幕」は、本来であればこの会話劇のみのことを指している が、サイマル演劇団『シュルレアリスム/宣言』においては、ここまでの全てがその言葉に 包含されうる。【サタン】による挨拶は、『赤いスイートピー』(kuni 氏によるカバー版)と “解剖台上のミシンと蝙蝠傘”(cf., ロートレアモン『マルドロールの歌』)のごとく出会いな がらも、 「けれども、わたくしはいまから、わずかながら、よりいっそう理屈にかなわない見世物の 数々に、皆さまをお招きする光栄にあずかることでしょう、というのは、わたくしは、永遠 なるものを、唯一無二のうつろいやすいポエジーに、つまり、おわかりでしょうか、唯一無 二のうつろいやすいポエジーに仕立て上げることに、絶望しているわけではないのです!」 と結ばれ、「唯一無二のうつろいやすいポエジー」に「演劇」を代入すれば、それは演出家・ 赤井康弘の “宣言” のようにも響いた。 哄笑を後に【サタン】は去る。残された二人は、【マルク】と【エレーヌ/リュシー】で もなければ【B】と【女】とも少し違っていた。二人によって語られた二つの定義、 「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋なオートマティズムであり、それにもとづいて、 口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだて る。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいから もはなれた思考の書きとり。」(p.46) 「百科辞典。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐ れた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆ る心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとっ てかわることをめざす。」(同) は、どちらも二度目だが、こんなにも決然と “宣言” されはしなかった。そして、車椅子に 乗った “女” と、彼女を押していく “B” の背中が闇に溶けていく。 「舞台上には限界があるが、永遠に歩き続けるんじゃないか?と感じさせなければならな い。」 と、赤井は稽古の際に俳優の足運び、その一歩に対して指摘し、 「(...)独房のなかでも、銃殺刑執行隊の前でも、自分を自由だと感じることはできます。で もその自由をつくりだすのは、人の耐えている受難そのものじゃありません。自由とは永遠 に続く解放のことです、そうあってほしいものです。」(『ナジャ』p.79) と、ブルトンはその日出会ったばかりのナジャに語った。 闇に溶けた背中は、自由の中を永遠に歩き続けることができるのだろうか。