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世界中の船が、この波止場に集まる

Boats from all over the world gather at this dock

MarginalMan23

世界を股にかけて活躍するパフォーマンスアーティスト7名が、サブテレニアンに集まって、コラボレーションの形で、パフォーマンスをします。
既成の枠組みにとらわれない、マージナルな表現であるパフォーマンスアートを、楽しんでください。

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公演概要

2024年7月30日(火)19:30

​会場/サブテレニアン

料金/2500円

チケット予約/yoyaku@subtrerranean.jp

問い合わせ/080-4205-1050(赤井)

​✴︎グラシエラ、ケルビン、ノンタワットは映像参加となります。

​✴︎チラシ記載の6名に加えて、ポール・クイヤール(カナダ)が参加することになりました。​

アーティスト

技術/豊川涼太
企画協力・宣伝美術/濵田明李
企画/武谷大介 赤井康弘
製作/赤井康弘
​主催/サブテレニアン

『浜に打ち寄せる波は、自分が絵描きであることを知らない

―「世界中の船が、この波止場に集まる」に寄せて』

 

​平岡希望(劇評家/ライター)

砂浜に落とした指先をすーっと下ろし、90度右に滑らせばその “航跡” は「 L 」になるが、私はL字の客席の、いわば指が離れるあたりで見ていた。

そして右肩は墨色の壁に軽く触れており、客席2段目の私から、1段目を挟んで前方150センチくらいのところにはサンドラ・コリガン・ブレスナックが立っていた。
瞑目した彼女は、開場前から両腕を前に、横にと広げながら深呼吸をしていたが、壁に預けていた肩甲骨をおもむろに浮かせると、そのままゆっくりと “出航” する。コリガン・ブレスナックはL字を遡行するように歩き始めるが、その角、客席が途切れたあたりの床にはポール・クイヤールも座っている。
彼も開場時からその場におり、真正面に置かれたプロジェクターで照らされていた。穏やかに、太陽へかざすように突き出した手のひらから白々とした光が洩れていたけれど、そんな彼の首筋に人影が映り始めたようだ。しかし、私の席からは、まだそれ以上見えない。

奥に見える本棚と本棚の間、下ろされた黒いカーテンの向こうから這いつくばって現れたシュー・ミン・スーは、時に仰向けになってもがきながら舞台中央へと向かう。視線の先には銀色の、深めの鍋蓋 (と思しきもの) が伏せ置かれており、その鍋蓋のそばには (ヘッドの裏と留め具がオレンジ色の) フローリングワイパーが寝かせてある。這い進むシューと、鍋蓋と、ワイパーとが一直線になってL字の縦棒と平行になっている。

舞台を一周し、最初の位置に戻ったコリガン・ブレスナックは壁に腕を這わせていたが、その手を私の前の観客に伸ばす。ふたりが手を取り合った頃には、本棚の方から武谷大介がゆっくりと舞台を巡り始めて (先だってのコリガン・ブレスナックとは逆に、L字をなぞるように)、後ろ手に白い小ぶりなスーツケースを引いている。クイヤールはこの時も、気持ちよさそうにプロジェクターの光を浴びていて、シューは、蓋の前まで辿りつくも逡巡するように床で蠢いている。

武谷もそうして一周すると、舞台中央でスーツケースを倒し、中から取り出した50~60センチ四方のオレンジの布を敷く。そして、ステンレスの洗濯ばさみ3セット、鈴 (りん)、細い金属の棒5~6本、ハサミ、ばねばかり、黒い折りたたみ傘、白い手袋数組、毛糸…を整然とその上に広げていく。

私の右肩が軽く触れている壁を、2メートルほど離れたところでコリガン・ブレスナックは右手の人差し指でさすっているが、その壁をさらに伸ばせば、向こうの本棚との一角には背丈ほどはあろうかという枝が立てかけられていて、立ち上がったシューが、生い茂った葉を撫でる。三叉になった枝のあちこちには、ストッキングが巻き付いている。さらに、その枝のそばには銀のボウルが置かれていて (すぐ近くには、短い枝が4本と白い布もある)、中には米粒が山なりに盛られていた。壁から手を離したコリガン・ブレスナックが、それを軽く蹴って鍋蓋のあたりへ滑らす。
武谷は辞書を片手に持っていて、先ほどまで、何人かの観客にページを見せて尋ねていた。ひとりの観客が読み上げた「…センス」という言葉を、武谷がシューに向かって言うと、「ナンセンス」と彼女は応答する。

ボウルから両手ですくい上げては、ザアァ…と流し戻していたコリガン・ブレスナックが、またL字を遡行しながら、米粒を順々に観客へ配っていく。ここまで、ずっと床に座っていたクイヤールもおもむろに立ち上がると、真正面の、箱馬の上のプロジェクターを持ち上げ、ちょうどL字の角へと到達したコリガン・ブレスナック、彼女の持つボウルへ、斜め上から映像を投影し始める。
サラサラサラ…という流砂のようなか細い音は、そのボウルからではなく、観客の手の中から米粒の零れる音だった。彼女の輪郭で切り取られたU字の光が、米粒の散乱し始めた床に落ちている。街の映像のようだ。

武谷は、床に敷いた布の上から白い毛糸を取り出すと、一方を、本棚と本棚の間に垂らされた黒い幕に結び付け、もう一方を持ったまま舞台中央を横切る。そしてL字の客席、その横棒真ん中あたりに腰掛けた観客の身体に毛糸を巻き付けると、中央へと戻ってシューの身体にも巻き付け始めるが、裸足だった彼女は既にサンダルを履いている。武谷が観客に毛糸を巻き付けている間に、舞台中央の鍋蓋を開け、その中から取り出していたからだ (その時、彼女は鍋蓋に覆い被さっており、上から覗きこむように、腕を蓋の中に滑らせた)。左手に持ったその鍋蓋はパラボラアンテナみたいだが、それが、女神・アテーナーの持つ丸盾に見え始めたのは、しばらく後で、シューが床のワイパーを槍のごとく右手に携えたからだ。

そして床を拭き始める。その軌跡がしばし留められるのは床一面に米粒がぶちまけられているからで、コリガン・ブレスナックが、L字の客席、その書き始めのあたりで頭からボウルの米を被っていた。クイヤールはその時、床に寝そべって天井に映像を投影しており、顔にストッキングなのか、何かの布を巻き付けた半裸の人物が、赤い帯の垂れ下がる、白い空間に佇んでいる。そして “赤い帯” は爆竹だったらしく、パパパパパパパッ…と激しく鳴り響いて、それは米粒がボウルからザアァ…と流れ落ちた直後だったが、こうした音楽的な連関が、パフォーマンス中には多々あった。

今回の『世界中の船が、この波止場に集まる』には当初6名が出演する予定だったが、グラシエラ・オベヘロ・ポスティゴ、ケルビン・シャイン・コー、ノンタワット・マチャイの3名は来日が叶わなかった。 そしてクイヤールが新たに参加することとなったのだが、彼の操るプロジェクターで投影されているものこそ3名の映像作品で、例えば、靴紐同士結び付けた靴を、むき出しの肘や、腰や、各部に巻き付けて纏う作品がしばらく後で壁に投影されたが、コリガン・ブレスナックも、その前で黒いワンピースを脱いだ。そして、白くて長い布を身体に編む要領で巻き付けたように、映像とパフォーマンスは時に重なった。

映像は、“爆竹” と “靴” の他にもうひとつあって、それは、顔のように三つ並んだ花 (マーガレットだろうか) と炎、そして黒い紙 (のようなもの) を払う両手…といったイメージが連なるものだった。それら3作品が、15分くらいでループしていたのだが、当たり前だがパフォーマンスは繰り返されない。
約2時間にわたって、常に新しい動き、展開が4人によって空間へと投げかけられていて、布を纏ったコリガン・ブレスナックは、床に置いてあった鹿の角のような枝と、まっすぐな小枝3本を持って客席へ向かう。 “鹿の角” は、L字の角あたりに座っていた男性に渡され、小枝2本もそれぞれ別の観客に渡された。彼女の手には1本の小枝が残り、武谷は、ピンクに輝く電球を口元に当てている。クイヤールは、床の白手袋に映像を投影し、ワイパーと鍋蓋を持ったシューの右肩に、コリガン・ブレスナックが米粒を掛けているが、こうした、現れては上書きされていく展開の中、繰り返される映像は “いかり” のようなものだった。

そして、パフォーマンスに使われている道具も、なじみ深い日用品という点で、いかりとしての役割を持っていた。だからこそ、例えば脚立は、途中で武谷が舞台袖から出してきたものだが、彼はその脚立を立てて、胸に取り付けたばねばかりと毛糸で引っ張って動かした (ばねばかりが勢いよく外れ、シャツが鉤裂きになった)。その後、武谷が横倒しにし、大きな洗濯ばさみのようになったそのV字の上にコリガン・ブレスナックが乗ったが、そうした時の面白さには、普通の使い方からの逸脱という面がある。

「潜在する『Aでない』の有する力こそが、『Aでないというよりはむしろ』を表現し、『A』のリアリティを立ち上げているのです。」

というのは、郡司ペギオ幸夫『やってくる』(医学書院, 82ページ) からの引用だが、脚立の横に乗る、履いた (あるいは両腕に通した) ストッキングの中に米粒を入れる…といった逸脱した使い方は、その道具の定義に揺さぶりをかける。いわば、概念としての道具と、物自体との間に “くさび” を打ち込むようなところがあって、それがむしろ、脚立の、米粒の、ストッキングのリアリティを高める。故に、見慣れたはずの、いかりとしての道具たちは2時間の中でどんどん異質なものへ変わっていく、というより “化けの皮” が剥がされていく。
立ち上がったクイヤールが、プロジェクターの前で米粒を落としていくが、その影は壁に映らない。しかし、米粒自体は光の粒子となって、噴水のしぶきのごとく30センチは跳ね上がっていた。

映像は既に途切れ、舞台中央にクイヤールは寝そべっている。その上にシューが折り重なるように横たわり、奥では、竹を両手で立てた武谷と、枝を掲げ持ったコリガン・ブレスナックとが隣り合って直立している。ここで終わりそうな雰囲気もあったが、振り返ればもうあと10~20分はあったし、その前にも2回くらい、終わるのだろうかと思うことがあったがそれでも続いた。というように、このパフォーマンスがどこに行き着くか、観客はもちろんパフォーマー4人にとってもおそらく未知だった。
ここから連想するのは、ダニエル・C・デネットの「理解力 (Comprehension) なき有能性 (Competence)」というフレーズで、

「シロアリの蟻塚とアントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリア聖堂は、非常によく似た形をしているが、その起源と建築法にははっきりとした違いがある。シロアリの蟻塚の構造と形状には、なぜそうなっているのかのいくつかの理由が存在している。しかし、それらの理由を、蟻塚を構築したどのシロアリも表象することはない。(中略) ガウディの代表作の構造と形状にもまた、なぜそうなっているのかのいくつかの理由が存在している。しかし、それらの理由は (主として) ガウディが有した理由である。ガウディは、自分が命じて創らせた形状について、そのような形状であるべき理由をいくつか有していた。シロアリたちによって創られた形状にも、そういう形状であるべき理由がいくつか存在する。しかしシロアリたちはその理由を有することがない。」(『心の進化を解明する - バクテリアからバッハへ - 』木島泰三・訳, 青土社, pp.91-2)

とあるように、シロアリは精緻な、時に人工的ですらある巣を作り上げるが、そこには「建築家のシロアリなど存在しないし、個々のシロアリも、自分がなぜそれをそういう風に建てているのかについて、ほんのかすかな糸口すら得たことがない。」(同書, p.91)。
4人のパフォーマーはここにおいてもちろんシロアリではない。むしろガウディが4人集まったようなものだが、各自が各自にとっての他者である、未知である中で行うパフォーマンスには「理解力なき有能性」めいた自動性が感じられる。それは、シュルレアリスムにおける「優美な屍骸/甘美な屍骸」、相手が何を思い、どんなものを作っているのかを知らずに詩や絵画を共同制作する手法とも近しいかもしれない。

そうしたパフォーマンスは、終わるというよりはむしろ “止む” といった方が正確で、持っていた枝を床に落としたコリガン・ブレスナックは、私から見て150センチくらい前の初期位置に戻る。武谷も、先ほどまでコリガン・ブレスナックと剣のように重ね合わせていた竹を持ったまま壁際にしゃがみ、寝そべったクイヤール、彼から離れて立ち上がったシューも、二人と並ぶように立膝で控えた。
コリガン・ブレスナックは、中盤あたりから顔にストッキングを被っていて、明るいベージュがかった石で彫られた菩薩像のようだったが、おもむろにそれを外す。そして、ボウルに布をかけ、脚立を立てかけ、枝を元の位置に戻すと、武谷の左肩に左手をそっと置く。

ハッと目覚めたように、武谷は顔を上げた。21時26分。2時間弱のパフォーマンスが “止んだ” 瞬間だった。
 

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