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サブテレニアン一人芝居フェスティバル

MAN STANDING vol.4

俳優が己一人の身体で勝負する。ジャンル無用。全てをそぎ落とし、

最後に舞台に立つのは、お前一人だ。

あなたは目撃者になる。

俳優が、身体ひとつで舞台に立つ。観客に彼/彼女の全てが晒される。

時間が過ぎれば俳優はその場を去る。

あなたは、どのようにして帰路につくのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.05.24sat 19:00

2025.05.25sun 13:00

2025.05.25sun 17:00

​*2本立てで上演します。

出演

大美穂

古池大地

料金

一般3000円

学生・障がい者2000円

​チケット予約

こりっち

https://stage.corich.jp/stage/369370

問い合わせ

info@subterranean.jp

080-4205-1050(赤井)

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大美穂
「仮のスケッチ線」

ーXは愛せなかった。Xは愛せなくて、文字どおり、愛することができなかった。愛せない、XはXにそう言い、XはXに言わなかった。ー 現代ソウルのアザーサイドを象徴する若き作家ソ・イジェの問題作を、世界で初めて舞台化。意識の流れをたどる新しいポスト/モダン文学が、俳優の硬質な身体とともにアクチュアルに現前する。 0%를 향하여  Copyright ⓒ 2021 by Seo Ije  Originally published in 2021 by Moonji Publishing Co., Ltd.  All rights reserved.  翻訳/原田いず 左右社刊

劇団唐組を経て現在フリーで活動。
赤井康弘演出作品では『青い鳥』『フェルディドゥルケ』『シュルレアリスム/宣言』『新カザ・モノローグ2024』に出演。
今回一人芝居に初挑戦。
また、日本南京玉すだれ協会A級指導者・八房海原美(やつふさ・うなみ)として、町屋カルチャースクールで講師を担当。南京玉すだれの普及活動に取り組んでいる。

演出︎/赤井康弘 サイマル演劇団主宰。主に不条理劇、前衛劇を国内外で上演。俳優の身体性を強調した演出スタイル。物語から距離を置こうとする身体と引き寄せられる精神の葛藤を描き出し、硬質で詩的な表現が特徴。

古池大地
「竹の春、青年の夢」

郊外の住宅街。昔は蕎麦の産地だった。
収穫期には、今でも語られる伝承がある。
その街に住む一人の青年。青年はその伝承に誘われ、不思議な世界に迷い込む。
介護士の生活、富山での演劇人生。作者自身の経験や、日本の地域社会を題材に作られたオリジナルの演劇。富山県西部の伝承、伝統芸能、更に即興の手法を用い、リアリティをより追求しています。

表現実験BASHOW主宰
2019年 オーバードホール主催 タニノクロウ×オール富山 ダークマスター 準主役
2023年 愛知県岡崎市にて即興ワークショップ「いざないのレッスン」ファシリテーター
2023年 自身の劇団で初となる「さいていな杖」を富山県にて上演。作、演出、出演
2024年 東京都板橋区 サブテレニアン主催の一人芝居フェスMAN STANDING vol.3に役者として参加。「竹の春、青年の夢」を上演。作、演出、出演
2024年 石川県金沢市にて モンゴル料理店での「飯と劇」に参加。「宇宙漂流記」を上演。作、演出、出演
2024年 自身の劇団による、ワークショップ「表現実験稽古会」を実施。

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照明︎/立山亜佑(Luce)
音響︎·舞台監督/豊川涼太(街の星座)
宣伝美術︎︎/伊東祐輔(おしゃれ紳士)
企画·製作︎/赤井康弘
主催/サブテレニアン

『エバー・グリーン・ホーン ――「サブテレニアン一人芝居フェスティバル MAN STANDING vol.4」に寄せて』

​(劇評家・ライター/平岡希望)


【第 1 部】大美穂《仮のスケッチ線》(原作/ソ・イジェ,演出/赤井康弘) カッチッ、カッチッ、カッチッ...と、場内はすでにメトロノームの音で満たされていて、リゲティの『100 台のメトロノームのための「ポエム・サンフォニック」』ならば、文字通り 100 台のメトロ ノームが並んでいるはずのところ、舞台中央から上手にかけて、壁には 99 枚の“帽子”が規則的に並んでいた。それらは張り紙で、バケットハットと言えばいいのか、円盤型の UFO みたいなシルエ ットには、しかし 10 色ほどのバリエーションがあって「⻘、緑、紫、⻩、クリーム色の混ざった帽子。もしくは濃い⻘、濃い緑、明るい紫、原色に近い⻩色。」(ソ・イジェ 著,原田いず 訳『0%に 向かって』左右社,p.135。以下、ページ数のみ示す)みたいだ。上手の壁、客席の手前にローマ数 字のIのごとく並んだ 14 枚の張り紙のどれを見ても「帽子を探しています」と書かれていて、写真 の下には特徴が記載されているようだが場内の薄暗さもあいまって見えない。“I”の隣、上手奥には 13 枚の張り紙が、30 度ほど左に傾いだ“0”の真ん中に点が 1 つ付されたような形で並べられ、 “点付きの0”と“I”は、組み合わさってハングルの「이」みたいにも見える。 “点付きの0”から左を見れば、正面の壁、上手との角沿いには張り紙が縦 6×横 8 枚に並べられ、 その左隣には“0”があり(こちらは傾いておらず、かつ真ん中の“点”が無いから 12 枚だ)、ちょう ど壁の中央にあたる位置に貼られた同じく 12 枚の帽子は、ハングルの母音「ᅭ」と「ᅲ」を縦に連ねたように並んでいて⻭を覗かせた口みたいでもある。そこから下手へ目を向けていけば、“ᅭとᅲ” の隣には大きく投影された QR コードが、黑塗りの配電盤が、そして下手側壁面には本棚が作り付けられていて、本棚と、本棚との間の通路からにょきっと白いスニーカーが浮かび出てきた。 靴をはめた両手、その袖はサーティワンアイスクリームのオレンジみたいなオレンジ色のだぼっとした袖で、にょきっと顔を出した大美穂はサングラスを掛けており、滑るように踊り出たその身体 はやはりオレンジ色のだぼっとしたトレーナーで包まれていた。 「ひとすじから始まる。」(p.130)から始めた大は、すでに舞台中央まで踊りゆらめくように進み出 ていて、右手の靴底、滑り止めの溝も鮮やかな真新しい土踏まずが、彼女の頭とぶつかって軽く音を立てる。座り込むとオレンジのパーカーからは黑い裾が覗いて、ジーンズの裾は 5 センチはロー ルアップされていて、靴を左足から履いていくがその足ははだしだった。靴ひもを結び終えた彼女は、「X は愛せなかった。X は愛せなくて、文字どおり、愛することができなかった。愛せない。X は X にそう言い、X は X に言わなかった。X は愛せないという言葉をもう愛していないという意味 に理解し、誤解し、それゆえ、X がもう自分のことを愛していないのだと思った。X は、X に自分 のことを理解してほしかった。」(p.130)...と、しなやかな声で淡々と発しながらも、反復的で止め どないその物言いが身体をも突き動かすかのように、舞台上を大きく行き来していて、「来る道でカ ップルを見たんだ。カップルじゃないかもしれない。カップルっていうか、ふたりっていうか。カ ップルみたいに見えるふたりかも。」(p.131)の「カップルみたいに見えるふたりかも」で客席を見 ながら上手前の壁に手をつく。「じっと見つめ合ってた。怒ったみたいな顔して、(中略)あのふたりの目にはわたしが見えてない。なんか、わたしって幽霊なのかなって思った。」(同上)と言い終 えた大は壁に背中もつけて、邦訳で 30 ページの原作短編『仮のスケッチ線』が、ここまででちょう ど 2 ページ分上演されたことになる。 サイマル演劇団主宰であり演出家の赤井康弘は、そこに一言も足し引きすることなく舞台化してい て、私はここ 3 年ほどで、赤井の構成・演出作をたしか 6 本観ているが、それに限って言えば、原作を全編そのまま使用するのは珍しい。例えば《シュルレアリスム/宣言》(2024)では、原作に併 録された小話集『溶ける魚』の中から数作を使用し、全編を使ったものも内 2、3 あったが本作に比べればどれもずっと短くて、リーディング公演《ガザモノローグ 2023》(2024)および《新ガザ・ モノローグ 2024》(2025)でも同様だった。もちろんそれは、メーテルリンクの『⻘い鳥』やゴン ブローヴィチの『コスモス』『フェルディドゥルケ』のような⻑編を扱っていたためでもあるが、引用した種々のテクストを“キメラのように”組み合わせるという、赤井が近年試みている手法も影響している。特にそれが徹底された《フェルディドゥルケ》(2024)において、十数編の歌詞、詩句、 戯曲、インタビューなどに紛れて現れる『フェルディドゥルケ』は、物語の前後すら入れ替えられ、 もはや引用されるテクストの 1 つに過ぎない。赤井は、“原作”という確固としたアイデンティティ を解体し、その特権性を剥奪していて、《フェルディドゥルケ》というタイトルが指すのは、原作『フ ェルディドゥルケ』とは全く違うものだが、今回の上演テクストである『仮のスケッチ線』もまた、 「X」という伏せ字を多用することで、行為の主体や、全体の文意を意図的に不明瞭にしている。 「わたしは今日あったことについて話しただけなのに、X と X は喧嘩している。X たちは喧嘩して いて、XXX や XX と言い合っている。X だけがわたしを気づかい、一杯飲みなと言ってきた。X が、一番悪い X だ。」(p.133)に登場する「X」は、喧嘩する 2 人と、「一杯飲みな」と勧めてくるもう
1 人であり、2 つ 3 つ連なったものは罵倒であり、最後の「一番悪い X だ」には、例えば“やつ”と かが代入されるだろうことは予想がつく。これがもし、「わたしは今日あったことについて話しただけなのに、[A]と[B]は喧嘩している。[A]たちは喧嘩していて、[イカれてる]や[勝手すぎる] と言い合っている。[C]だけがわたしを気づかい、一杯飲みなと言ってきた。[C]が、一番悪い[や つ]だ。」であったらイメージは鮮明に(そして凡庸に)なるが、作中の「わたし」は、全編にわたって様々なシーンを何度も何度も思い返しており、それらのイメージは、もはや繰り返し再生し続けたフィルムテープのように擦り切れ始めているのではないか。 出来事は遠く、ぼやけ、読者の想像もまたおぼろげで、「白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女」...と 6×14 行にわたって「白い少女」が縦列になった春山行夫の詩は《フェ ルディドゥルケ》に引用されたものだが、84“人”の白い少女が一挙に目に飛び込んでくる紙上に対 し、舞台上で連呼されることで虚空に現れては消える「白い少女」のイメージは、1 人の少女をス トロボでコマ送りしているようでもあった。大によって繰り返される「X」もまたたくように響い て、読者は、文章中の「X」にそれらしい言葉を代入して読み進めるわけだが、確証を得られるわけ ではないからそこには常に曖昧さが付きまとって、著者であるソ・イジェ氏の試み(の 1 つ)に、 「思い出す」ことにまつわる不明瞭さを、小説というメディアにおいて再現することがあって、まさに“仮のスケッチ線”のごとく薄くかすれたイメージを、読者の頭の中に描きだすための装置が「X」
だったのではないか。 おそらくその狙いと連動しているのが風景描写で、「石垣。道。一方通行。天幕。麺をすする人。使 い捨ての器。ネクタイどれでも千ウォン。手を取り合って歩く恋人。(中略)ソウル東廟(トンミョ) 公園。路地。売ります買います。道に並んだオーディオやスピーカー。CD にレコード。地面に積まれた段ボール。積まれた服。G パン。いくつもの服の山。帽子。」(pp.130-131)と単語が羅列さ れ、1 つひとつが精緻に描き込まれたり、視線の動きが綿密に語られたりすることはない。それは、 遠近法によって体系化された 1 枚の風景画を見るというよりは、複数の心象風景が、一見脈絡もなく描き込まれた絵画を眺める心地で、そもそもこの小説には地の文がなく、すべては独白だ。頭の中の独り言のような執拗さと身軽さについて行くことは、目の前に文章が並んでいない舞台では一 層難しい。いや、これが仮に大がかりな舞台セットや場面転換を備えた演劇だったら、それらを外部記憶装置として観ることも可能だったろうが、目の前には 99 枚の“帽子”と、それらを撫でるよう に射す、下手側から上手へと伸びて台形になった灯りしかない。そうした仕立ては、「俳優が己一人 の身体で勝負する」という『MAN STANDING』のコンセプトでもあり、俳優の身体性を重視する赤井自身の目論見でもあったのだろうが、観客は、大が発する声、その「エックス」の響きと、意識の奔放な流れを体現するかのような彷徨と、例えば、「スターバックスでフラペチーノを飲んで、 星を集めた。星を十二個集めれば、タダで一杯飲むことができた。わたしたちはフラペチーノを飲んで星を集めると、その星でまたフラペチーノを飲んだけれど、正直わたしは欲しくなかった。そのときだけは。」(p.138)から、見開きの p.139 にわたってあと 14 回登場する「フラペチーノ」の 度に、大は腕を下ろしたまま右肩を後ろに回したけれど、そうした所作を頼りに、茫洋とした内的 世界を逍遥することとなった。 それは音楽を聴くこととも似て、赤井の作品には、テクストの音楽的な要素を引き出すところがあるように思われるが、一人芝居である本作は特にそうで、シューベルトの『アルペジョーネ・ソナタ』は、当時開発されたばかりのアルペジョーネ、端的に言ってしまえば、チェロのように構えて弓で弾くギターのために書かれた曲だが、楽器自体は廃れてしまい、今日では、主にヴィオラやチ ェロによって演奏される。しかし、復元したアルペジョーネによる演奏というのも存在して(cf., https://edyclassic.com/661/, 2025 年 5 月 30 日閲覧)、古楽器らしい、少し線の細い鼻にかかったよ うな響きの中に、6 弦がなせる音域の広さ、そしてハープのような豊かな余韻を持ったピチカートなどがあって、やはりこの楽器のために書かれた曲であることを感じさせるが、それは他の楽器による演奏を貶めるものではない。ヴィオラには艶やかさが、チェロには伸びやかさがあって、演奏例は比較的少ないものの、コントラバスにはルイ・アームストロングの歌唱のような温かみがあるように、大美穂ではなく、他の俳優が“代入”されたら当然そのリズムや“音色”は違ったはずだ。 また、それは会場であるサブテレニアンにも言えることで、舞台下手の本棚、そこには戯曲や演劇 関連の理論書はもちろん、詩集、展覧会図録、書店やサードプレイスにまつわる書籍なども常時開架されているのだが、だからこそ、本が小道具としてではなく自然に存在していて、大は「帽子の写真」(p.151)と言いながらおもむろにその中から 1 冊を抜き取って、「写真の中に東廟という言葉 はなかったけど、君は東廟にいた。これはわたしが撮った写真で、わたしが撮った写真の中にわたしはいないけど、わたしは東廟にいた。君は帽子をかぶってて、わたしは君に送る文章を書いている。」(同上)と続けながらやはりうろうろとしていたが、一連の動きはサブテレニアンだからこそ 生起したのではないか。
そこから、原作で言えば 1 ページ弱、時に頭に載せたりしながら本を持ち歩いていた彼女は「酒を飲んでいる」(p.152)と言いながら、両腕を伸ばし持った本の表紙をはたと見つめ、「酒を飲んでい る」(同上)ともう一度発した時には、本棚の元の位置にそれを戻した。
「X は帽子を編んでて、帽子を編んでるうちになんで帽子を編んでるのかわからなくなり、なんで帽子を編んでるのか分からないのに帽子を編んでて、帽子を編んでるうちに、X の目、X の東廟、 X の歩幅、X の前屈みの肩、X の癖、X の性格、X の音声、X の言葉、X の X と X と X と(...)X と X が思い浮かび、」(p.157)の 1 度目の「なんで」の時に、しゃがんでいた上手奥の角から立ち上がって、2 歩、また 2 歩と進み出た大の足先に白い靴がぶつかった(そしてその靴が、靴と靴の 間に置かれたサングラスをそっと押した)のは彼女が「ただそう言って、何を見たのかは言わなかった。」(p.155)と言った後に、舞台中央前寄りのあたりにしゃがんで脱ぎ捨てたからで、その動きはさらに前のページの、「もつれてもつれ、もつれもつれてもつれあい、もつれもつれるそのうちにすっかりもつれてしまって、ほどきほどいてほどきつつ、ほどきほどいてほどきつつ、ほどくうちにすっかりほどけてしまって、」(p.153)の残響のようでもあって、靴ひもをほどく彼女の左肩越しには、Instagram の投稿ページが見えていたが、それは少し前から、QR コードに代わって投影され始めた XXXXXXXXXXX...と並んだ X のごとく目地が走った石畳で、編み目のようでもあった。 そして、サブテレニアンの墨色の床に“言葉”が敷き詰められていくのは大が壁の貼り紙を剥がし始 めたからで、「努力 時間 真心 愛情 犠牲 希望 歓喜 栄光(中略)美しさ 永遠 停止」(p.158)の ように、原作では 71 個の言葉が羅列されているが、彼女は張り紙を 1 枚剥がして、裏返し、そこに印字された「努力」を読み、床に捨て、また 1 枚剥がして、裏返し、その「時間」を読み...を繰り返していって、そうした反復は、プリン・パニチュパン(Purin Phanichphant)氏の《Paradise Stair》を見る時間感覚とも似ている(cf., https://purin.co/Paradise-Stair, 2025 年 5 月 31 日閲覧)。 タイトルの通り、5 階まで続くビルの内階段自体を作品化したその 1 段目には“HELL”と書かれていて

“SHIT”,“CRAP”,“DREADFUL”,“TERRIBLE”...と 1 段 1 段に付された形容詞は、3 階に辿 り着く頃には“NICE”に変わり、そこから“EFFORTLESS”,“HONEST”,“CLEVER”,“SOLID”... と転調した言葉は最後の 1 段で“PARADISE”に至るが、それらを読み進めるには、左右の足を交互に動かし、階段を 1 段ずつ上って行かなければならなくて、張り紙を剥がして読み上げる一幕は、 俳優である大が、ここまで『仮のスケッチ線』を全身でもって読み進めてきたことを翻って観客に知らしめていた。そして《Paradise Stair》において、“HELL”から“PARADISE”に至る階梯がグラデ ーションこそ多彩なものの一本道であるのに対し、ここで取り上げられている 71 語にはソ・イジェ氏一流のうねりがあって、「美しさ」と大が発した時、その手は舞台上手角沿いの、縦 6×横 8 枚 に並べられた張り紙の、左上の 1 枚を握りしめていて、周囲の壁の張り紙は、すでに床で白い湖と化していた。
48 枚の張り紙は、彫刻家が大理石のキューブを彫り進めていくように、周りから 1 枚ずつ剥がし取られていって、たしか左下あたりの、71 枚目の裏に印字された最後の「言葉」を「ことば」と発話すると、大は舞台中央へと飛び退くように倒れ、ワイエスの《クリスティーナの世界》みたいに足 をくの字に折って上体を起こして、「これ何。」(p.159)と言いながら上手角へと視線をやった。そ の先には、28 枚の張り紙が円盤みたいに残っていて、「遥か彼方から飛来する未知の光が/僕らを包んで/迷いも苦しみもない世界へと誘(いざな)う/あの UFO が出てくる夢」(Mr.children『UFO』 より)という、中学生くらいの頃に、実感もなく何度も何度も聞いた歌の一節が蘇ったのだが、迷いも苦しみもない“PARADISE”では『仮のスケッチ線』も《仮のスケッチ線》も生まれなかったはずで、「帽子だよ、君のね。」(p.159)の一言で“UFO”は帽子になった。 そして大は靴を履き、サングラスを掛け直すと揺らめき踊るように去っていって、後は帽子と、散乱した張り紙と、「さあ、愛について話す番だ。」(p.160)の残響ばかりだった。


【第 2 部】古池大地(作/演出/出演)《竹の春、⻘年の夢》 「さっきとは違うんだから、切り替えて!」と叱咤する古池は観客席の真正面に立っており、噛んで含めるように話しかけてくるから私たち観客は唖然としていて、「サノさん、起きる!」の声に思 わず後ろを振り返るが、観客席にはそれらしい人影はなかった。 進んで目を合わせようとする彼に、話しかけられたくなくてうつむくと彼ははだしで、ベージュのチノパンを履いており、濃紺の胸ポケットがあしらわれた細かい縦縞のシャツは少しゆったりとしていて、首に掛けた山吹色の布、その端と端を持った彼は舌を前に突き出していた。舌を上、下、 右、左へ伸ばし、回して、あっかんべーまで済ますと今度は“パタカラ体操”だ。古池の「パ」「タ」 「カ」「ラ」に観客も唱和して、それは俳優の卵がレッスンを受けているようでもあったが、「みんな、おつかれ〜!これでごはんおいしく食べれるからね!」という彼の言葉で、ここが介護施設らしいことを悟った。思い返せば、冒頭で「晩ごはん前のレク(リエーション)始めるよ〜!」と言っていたし、パタカラ体操も、誤嚥防止のための実際の訓練法のようだ。そこには、古池の介護士としての経験が反映されていた。
観客の 1 人が「カレー」と言ったのは、古池が献立を尋ねたからで、「サノさん、カレー好きだね 〜!」と返したように、彼は即興的に場を作っていく。「なに歌いたい?」と問われたのは私の隣の女性客で、「ふるさと」という彼女の答えを、やはり「この前歌ったでしょ」と退けて歌い出したの が、「こきりこの竹は七寸五分じゃ/⻑いは袖のかなかいじゃ/まどのサンサもデデレコデン/は れのサンサもデデレコデン」から始まる「こきりこ節」だったように(cf., https://www.uta- net.com/song/7847/, 2025 年 5 月 31 日閲覧)、彼は、出身地である富山県の唄や伝承を本作のモチーフとしていた。
私たち観客は、彼の唄に合わせて手を叩いていたが、3 番の歌詞に入るとこれまでの明朗な調子が 失われて、皆で思わず手を止める。彼の茫然としたような目は、ぼわりと灯り出した上手のライトを追っていて、「まどのサンサもデデレコデン/はれのサンサもデデレコデン...」の響きが消え入るように、暗転していった。 「...デデレコデン、デデレコデン」という声が、囁きからだんだんと大きくなるにつれ再び明るくなった舞台、その中央には“⻩色い山”があった。標高を徐々に増していくのは、しゃがんでいた古 池が少しずつ立ち上がっているからのようで、彼は首に掛けていた⻩色い布を、頭からすっぽり被っていた。「デデレコデンッ、デデレコデンッ」のお囃子が、強風にあえぐ葉々のさざめきのように高まり、止むと、“山”から「ねぇあんた、竹、しらんけ」という声が下りてきて、山で声を掛けられたら返事をしてはいけない、という⺠話だか怖い話だかを聞いたことがあるがそれのようで、誰も返事をしない。こちらを指さしてもう一度問うが、それでも返事はない。 立ち上がった古池は下手へ向かい、さらにそのまま、本棚と本棚の間の通路をゆっくりと進んで角に消えていく。その時、私が上手寄りの最前列に座っていたこともあいまって、サブテレニアンの空間はこんなに広かったか、と思うような広さが彼の所作によって生み出されていて、一番手の大と赤井が舞台を象徴的、脳内世界的に構築していったのに対し、古池はより写実的に物語を描いていって、「まーた勝手に出ようとして!」と、彼が引き返してくる。「ヨーコさん、言ってるでしょ!」 「苦情が...、またヒヤリハットに...!」とくどくど注意する口と、首根っこを捕まえているような手の仕草で“介護士”を、引き摺られるような身体で“ヨーコさん”を演じ分けていて、両手で“口”を押 さえたのは、彼女が何か叫びだそうとしたらしい。 彼は“ヨーコさん”を部屋へ連れ帰ったようだ、舞台下手奥に⻩色い布を敷いてやるとそこはベッド に、掛け直すような身振りをすれば掛け布団になって、寝かしつけたらしい彼は布をシュッと取り 去ると、「サノさん、入るよ」と舞台正面の“サノさん”の下へしゃがみ、話しかけ、“掛け布団”で首元まで包んでやり、また別の利用者のところへ行き...という反復が、介護施設の夜を形作っていく。「失礼します」という声からは、先ほどまでの、親しみと少しの高圧さが入り混じったような調子は消え、富山弁の響きも乏しく、上手奥に中腰になった古池は、下手へ顔を向けると巡視の報告を 始める。相手は、今晩のレクに駄目出しを始めてどうやら先輩らしい、「先に休憩いただきますね」 という彼を捕まえた“先輩”の話は演劇のことへ移る。「今年も...出ます、演劇で...」「やりたいこと があるって...はい、36 になります...」「家のこと?...もちろん考えて...」というやりとりを終えた彼が、頭まで被った“布団”の中からは鼻をすする音が聞こえて、そのシルエットもやはり山のようだった。 「...夢じゃない」とつぶやいた彼はすでに身を起していて、「さむっ!」と声を上げて⻩色い布を羽織ったその身体も、舞台も、一面緑のライトで照らされており、天井を見上げる。どうやらそこは鬱蒼とした竹林らしく、竹をかき分けながら 1 歩、1 歩と進む彼は部屋を抜け出したらしい“ヨーコ さん”を探すが、見つかるのは蕎⻨の花と「なんけこのでかい竹...」と思わず漏らすほど立派な竹で、 「...のぼってこい?...」と声に誘われるままよじ登り始める。 「...デンッ、デンッ、デデレコッ、デンッ/デンッ、デンッ、デデレコッ、デンッ...」と腕を伸ばし、足を持ち上げ、途中で立山の山頂と、雷鳥の雛を見晴るかしながら登る彼は豆の木を登るジャックみたいで、「特定の事物と結びついていたお話が、特定の事物や時を離れてしまい、『昔々、あ るところに、おじいさんとおばあさんがいました。』というように、特定できない時の、特定できな い人や物語となると、それは『昔話』になる。(中略)そしてそれは、日常の世界には存在しないこ とを知りつつも、人々の心のなかの『真実』を語るものとして、⺠衆の中に語りつがれ、生命を保
ち続けるのである。」(河合隼雄 著,河合俊雄 編『神話と日本人の心』岩波現代文庫,p.10)と定義されるように、彼は、“古池大地”という私小説の主人公から、ある男、あるいは〜太郎のような ⺠話・昔話の住人へと、いつの間にか変わっていた。 河合隼雄氏は「しかし、神話はひとつの部族、国家などの集団との関連において、より公的な意味 合いをもつものである。(中略)人間にとって必要な『神話の知』という点で言えば、それは伝説、 昔話、神話のいずれにも認められる。ただ、むしろ神話は既に述べたような特定集団の意図が関連しているという点に留意する必要がある。伝説や昔話の方が、素朴な形で人間の心の深いはたらきを示している、ということもできる。」(同書,pp.10-11)と続けていて、本作と《仮のスケッチ線》 は、『MAN STANDING』という企画の中でたまたま連続上演されたに過ぎないが、舞台上に 1 人 立った俳優が、自身のアイデンティティを希釈しながら登場人物を演じつつも、不特定多数にまで は溶け込まない“私(たち)”の話をしているという点で共通していたのではないか。 さらに、ライスワークに勤しみながらライフワークを追い求めたり、「履歴書を書かなきゃいけないけど、そんなの後回しで編んでい」(『0%に向かって』p.156)たりする“私(たち)”は、⻘竹のよう に、あるいは「海のブルー シャツのブルー ズボンのブルー 帽子のブルー 地下鉄座席のブルー 髪 の毛のブルー イルカのブルー ポカリスエットのブルー ムーンライトのブルー 空のブルー」(同 書,p.147)のように“⻘く”、「自分でも一人前の大人か、⻘二才か分からないでいるしまつだったのだ。こうして人生のなかばに達したというのに、おれはまだあれでもなければ、これでもなく―― けっきょく、何物でもなかったわけだ。」「しかし、ここで考えてみなければならないのは、どうも具合の悪いことだが、諸君がまだショパンたちでもシェークスピアたちでもないということだ。芸術家としても、芸術の祭司としても、諸君はまだ完璧ではない。諸君は、現在の発展段階では、せいぜいよくて二分の一シェークスピア、四分の一ショパン(アア、呪われた部分よ!)にすぎないのだ」(ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著,米川和夫 訳『フェルディドゥルケ』 平凡社ライブラリー,pp.11-12,p.136)とこき下ろされる“⻘二才”なのかもしれないが、「俳優が己一人の身体で勝負する。ジャンル無用。全てをそぎ落とし、最後に舞台に立つのは、お前一人だ。あなたは目撃者になる。」「俳優が、身体ひとつで舞台に立つ。観客に彼/彼女の全てが晒される。時間が過ぎれば俳優はその場を去る。あなたは、どのようにして帰路につくのか?」という『MAN STANDING』のコンセプトこそ、永遠の⻘二才であれ、という『フェルディドゥルケ』の精神的後継であり、それは『0%に向かって』の帯文「メインストリームから外れたソウルの『B 面』」にも繋がっているのではないか。 「普段は介護...あっ、お年寄りとか...でも本来は俳優で...いやっ、すごいものでは...!」という自己紹介が、おぼろに光る下手へと吸い込まれていく。竹を登りきった先には“城”があり、その主から歓待を受けた彼は、主の求めに応じて芝居を披露し、また酒を振る舞われ、いい気になっているところに聞こえてきたのは“ヨーコさん”の声のようだ。「なんけヨーコさん!...いいところなのに... 今帰るから!」と返事をした彼は「夜勤なので...すぐ戻ってくるので...」とその場を辞し、また竹を降りて、ようよう帰り着くと、「連れてけ!?...あっ登らんといて!...じゃあおぶさって...ちょっと太った?...」と“ヨーコさん”を連れて行くことになる。

「じいさんは、ばあさんを革袋に入れて口にくわえて持っていく事にした。(中略)しかし、途中でばあさんはどうしても我慢できずに話しかけはじめ、じいさんは口が開けないので『うんうん』と言っていた。じいさんはもくもくと登り続け、ようやく竹の子のてっぺんが見えかけた時つい、『ば あさま、着いたぞ!』と口を開けてしまった。」(『天までとどいた竹の子』 http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?cid=25&lid=292, 2025 年 6 月 2 日閲覧) 「ヨーコさん...どこ行った?」とつぶやく彼の口からも、咥え持っていた“革袋”はすで落ちていて、 急ぎ降りた彼は、床に開き落ちた布をめくる。 「じいさんが地上へ戻ってみると、ばあさんの姿は無く、ただ畑の蕎⻨の根元が真っ赤に真っ赤に染まっていた。」(同上) 「...なんでこんな赤なってる?...蕎⻨の実もぐちゃぐちゃ...」「そこけ?...ヨーコさん、冗談やめて!...」とあちこちを探し回った彼は改めて布を拾い上げると、冒頭のように首に掛け、両端を持ち、ゆっくりと前で合わせると、徐々に締め上げていって、伸び上がった身体は、糸が切れたように舞台正面の壁をずりずりと滑り、照明もともに落ちていった。 「ねえねえ...聞いた?ケアホームの男性ニュウキョシャ...首くくったって...」「何人目?...あんな ところにホーム立てるから...」というひそひそ話が、明るくなった場内に寒々しく響いて、彼が実は介護士ではなく入居者であったことを暴くが、「『殺害』という点について、日本の昔話に注目すべき話がある。(中略)⻤が人妻をさらってゆき、自分の妻とする。そこで夫は妻を探しにゆき、一〇年目に⻤ヶ島に行くが、そこには、⻤と人間の妻との間に生まれた子が居て、『片子』と名のる。人間の夫と妻は再会し、片子の助けもあってうまく人間世界に帰ってくる。しかし片子は半分⻤、 半分人間という存在であるため皆に相手にされず、居づらくなったので、大木から身を投げて自殺してしまうである。」(河合隼雄 著,河合俊雄 編『昔話と現代』岩波現代文庫,p.3。以降、ページ数のみ示す)と語られるのは、『⻤の子小綱』の類話である『片子』で、河合隼雄氏は、“居づらさ” によって自死する片子、それを黙認する父母、そして三者を取り巻く世間とに日本的な心性を読み解いた(pp.41-66)。さらに、「体の右半分が⻤、左半分が人間」(p.46)という片子の身体的特徴から、「現代に生きている多くの人が、何らかの意味で、自分の心の中に生じる縦の分裂を意識している、ということも出来るであろう。」(p.45)、「片側人間は常に死と対面しているということを、それは示しているのだろうか。」(p.56)とも述べているのだが、河合氏は後段において「完成美」と「完全美」という概念を提唱している。 これは、ユングの完成(Vollkommenheit/Perfection)と完全(Vollständigkeit/Completeness)を援用したもので(cf., pp.85-86)、「つまり、完成美というものは、あらゆる点で醜悪さを含まない美なのである、あるいは、欠点というものを持たない美である。それに反して、完全美とは、敢えて醜いものや欠陥を含み、それを含むことによって美はより完全となるとするものである。(中略)落葉ひとつない庭が完成美で、落葉が適切に存在している庭が完全美なのである。」(p.87)と定義しているのだが、片子という存在も、「せいぜいよくて二分の一シェークスピア、四分の一ショパン」 (『フェルディドゥルケ』p.136)な私たちも、欠陥や未熟さを内包しているという点である種の完全美を体現しているのではないか。
 
そうした完全美は、古池の用いる即興的な手法や、本作が、前回の『MAN STANDING vol.3』(2024 年 5 月 3〜5 日)および石田高大氏との共同自主企画『やわやわ行かんまいけ』(同年 6 月 15 日) を経て何度も語り直され、磨かれてきたこととも通じて、「かつて、この話が焚火のまわりで、あるいは雨の日の小屋の中で、蜒々と語られた時、この話はもっと錯綜し、混乱し、語り手は途中でたびたび言いよどんだことだろう。筋を離れ、聞き手に助けられ、またとまどい、新しい部分を付けたし、聞いている子供の名前をこっそり物語にすべりこませ、大団円までの遠い道をのんびりと辿りつづけた。」(池澤夏樹『夏の朝の成層圈』中公文庫,p.159)と描写された語りのようにパフォーマティブで、「まどのサンサもデデレコデン/はれのサンサもデデレコデン」...という響きを残して闇に溶けていく彼はやはり⻩色い山のようだった。 「頂上への道をしっかりと見つめつづけ、だが足もとを注視することを忘れるな。最後の一歩は最初の一歩に左右される。頂上が見えたからといって到着したつもりになるな。足もとに気をくばり、つぎの一歩をしっかりと支え、だが、もっとも高い目標から目をそらすな。最初の一歩は最後の一歩に左右される。」(ルネ・ドーマル 著,巖谷國士 訳『類推の山』河出文庫,p.187)

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