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MarginalMan28
抵抗の詩人リーディング

抵抗の詩人チラシたたき台.jpg

Poet
of
Resistance

戦火が止まない世界。
ひたひたとファシズムが押し寄せる世界。
我々は、何ができるか?


ひたすら抵抗することだろう。


ダルウィーシュ、金子文子、竹内浩三、トリスタン・ツァラ、プッシーライオット、、、


力なき群衆の力は、アーキペラゴ(群島)と共にある。


《出演》

赤松由美(コニエレニ)
大美穂
矢内文章(アトリエ・センターフォワード)

日時/2025年6月8日(日)17時

​構成・演出/赤井康弘


料金/無料
予約/yoyaku@subterranean.jp
✴︎サブテレニアンでは、常時、ドネーションを受け付けております。


技術/豊川涼太(街の星座)
企画・製作/赤井康弘

主催/サブテレニアン
 

当日、リーディングした詩人

マウン・ユ・パイ(ミャンマー) ケイ・ザー・ウィン(ミャンマー) 竹内浩三
アレクサンドル・ジノビエフ(ロシア) 吉本隆明 濱口國雄
ヒルデ・ドミーン(イタリア) マフムード・ダルウィーシュ(パレスチナ)
アレン・ギンズバーグ(アメリカ) 金子文子
ズビグニェフ・ヘルベルト(ポーランド) トリスタン・ツァラ(ルーマニア)
プッシー・ライオット(ロシア) 萩原恭次郎 ジーン・テイラー(アメリカ)
ヴィスワヴァ・シンボルスカ(ポーランド) ベルトルト・ブレヒト(東ドイツ)
ルイ・アラゴン(フランス)

『⾵向きを知りたきゃ、 予報⼠に頼るな ―― 「MarginalMan28 抵抗の詩⼈リーディング」に寄せて』

(劇評家・ライター/平岡希望)


⼤いなる氷の⼤地の下に
⼤いなる国が、⽣きたまま埋められている
⼤いなる国の下の
⼤いなる教会に、我々を護ってくれる神はもういない
⼤いなる教会の下には
⼤いなるいくつもの戦争が埋葬され、⼀つに溶けてくっついている
(マウン・ユ・パイ 作、柏⽊⿇⾥ 訳『⼤いなる氷の⼤地の下に』)


サブテレニアンの墨⾊の空間に広がりはじめた⾚松由美(コニエレニ)の声。その詩句には、氷の⼤地→国→教会→戦争→⽂化博物館…と、“深く静かに潜航” していくような響きがあったが、


海の下には
あろうことか、⼤いなる氷の⼤地
⼤いなる氷の⼤地の下には…


最後には、⾃らの尾を⾷んだ蛇のごとく円環を描いて、


You will not be able to stay home, brother.
You will not be able to plug in, turn on and cop out…


開場の時に流れていたギル・スコット・ヘロンの『The Revolution Will Not Be Televised』、3 分ほどのその曲もおそらく幾度となく “回転していて(revolve)”、“The revolution will be live” [拙訳:⾰命とは(テレビの前ではなく) ⽬の前で起こるものだ]という⼀節が、これからの公演を予⾔していた。


「⼤いなる氷の⼤地の下には…」と詩は結ばれ、 三⼈は⼿に持った台本をめくったが、これから幾度も繰り返されるその⾳が、時間の経過を報せるのに対し、⾚井康弘による演出では定番のメトロノーム、 開場中から鳴り続けていたカチッ、 カチッ…は変わらない。その不変が、 時間の “円環的” な相を突きつけているようで、 進歩と表裏の退歩、 蜿蜒たるその蠕動運動こそ、引⽤された諸作、そしてこの公演が糾弾するものなのではないか。


⾰命の花は咲かない
空気、⽔、⼤地
すべての栄養が揃わなければ
⾰命の花が咲く前に
⼀発の銃弾が誰かの脳みそを
路上にぶちまける。
その頭蓋⾻の叫びが君に聞こえたか?
(ケイ・ザー・ウィン 作、四元康祐 訳『頭蓋⾻』)


次に聞こえてきたのは⽮内⽂章 (アトリエ・センターフォワード)の声で、 舞台上には三脚の椅⼦が並び、 上⼿の⼀脚には彼が、下⼿の⼀脚には⾚松が腰かけ、三⾓形の鈍⾓を描く中央奥の⼀脚の傍らに、⼤美穂が⽴っていた。


なかず 吼えず ひたすら 銃を持つ
⽩い箱にて 故国をながめる
⾳もなく なにもない ⾻
(⽵内浩三『⾻のうたう』)


枯れ葉のようなページの⾳が、また⼀つ時間の経過を報せ、イメージは “⼤地” から “⾻”へと移ろう。舞台中央で、上の⼀節を読み上げる⼤の声に思い出したのは浜⽥知明の版画《初年兵哀歌(歩哨) 》 (cf., https://museumcollection.tokyo/works/6382604/, 2025 年 6 ⽉23 ⽇閲覧) で、 独房めいた “⿊い箱” の中、 死を先取りしたような⽩⾻姿の⼀兵卒は⼀⾒、《ゲッセマネの祈り》 (⼀例として、https://collection.nmwa.go.jp/P .1979-0004.html, 2025年 6 ⽉ 23 ⽇閲覧)において、イエス・キリストの⾔いつけを守らず居眠りした弟⼦たちのように壁にもたれかかっている。しかし、 左⾜の指は引き⾦に掛けられ、 喉元に差し込んだ銃⼝は、 両⼿で固く握りしめられていて、 俳優たちが胸元に、 両⼿で構えているのは台本だ。⽮内と⾚松の台本はそれこそ冊⼦形式だが、どうやら前者は左綴じ、後者は右綴じと逆のようで、さらに⼤のものはカレンダーのごとく上綴じになっており、 初期の⽴ち位置では、三者のめくるページが、 舞台の内側から外側へ軌跡を描くことになる。かつ、それぞれの台本
は綴じ⽅だけでなくシルエットも違っており、四⾓く切り取られた⽮内のものはパズルの
ピースあるいは切⼿のようだ、⼤のものも切⼿⾵だが、三⾓の切り⽋きは切符みたいで、ど
ことなく移動のイメージが伴う。


せめて⼀コペイカでも値を下げる、
パンではなくてウォッカの。
(アレクサンドル・ジノビエフ 作、川崎浹 訳『権⼒者への戒め』)


周囲を気にしながら呑まなくていいのなら、
私はおそらくソ連共産党に⼊っていただろう。
(同『党派性についての祈り』)


ジノビエフの詩を続けざまに発した⾚松の台本もまた、くびれたように切り抜かれ、はらりとめくられる様は蝶みたいで、三岸好太郎の油彩画《雲の上を⾶ぶ蝶》 には、その名の通り、雪原のごとく画⾯下半分を覆う雲の上空ではばたく⼆⼗匹以上の蝶が描かれている。三岸は「ある昆⾍学者から海を渡る習性をもつ蝶の話を聞いたことがきっかけで、この絵を構想した」らしいのだが(https://www.momat.go.jp/collection/o01073, 2025 年 6 ⽉ 22 ⽇閲覧) 、海を渡る蝶のイメージは「てふてふが⼀匹韃靼海峡を渡って⾏った」(安⻄冬衛 『春』)へとつながって、韃靼海峡とは、樺太とユーラシア⼤陸とを隔てる間宮海峡のことのようだ。


きみは廃⼈の眼をしてユウラシヤの⽂明をよこぎる
きみはいたるところで銃床を⼟につけてたちどまる
きみは敗れさるかもしれない兵⼠たちのひとりだ
(中略)
きみの眼はちいさないばらにひっかかってかわく
きみの眼は太陽とそのひかりを拒否しつづける
きみの眼はけっして眠らない
ユウジン これはわたしの⽕の秋の物語である
(吉本隆明『⽕の秋の物語 あるユウラシヤ⼈に』)


⽮内によって読み上げられた⼀篇には眼のイメージが横溢し、

 

あがきの指を 虚空に残し 沼に沈んでいった 花⽥⼀等兵の死を確認したのは 沼の淵に、餓死⼨前の⾝を横たえていた 僕であった。


花⽥⼀等兵の⽪膚が、 ⽇々変⾊し、 眼球に蛆がわき、 腐爛していく状態を、 確認しつづけていたのも、僕であった。
(中略)
仏壇に飾ってある、 勲⼋等旭⽇章の、 ⽩銅のにぶい光を 蛆に喰われた眼球で、 花⽥上等兵よ、しかと受け⽌めよ。
明⽇は、⼋⽉⼗五⽇、敗戦記念⽇である。
(濱⼝國雄『沼の中』)


の「敗戦」を⼝にしながら、椅⼦の背に右⼿を置いた⼤はこちらを⾒据えた。


MUSIC FOR A REVOLUTION(⾰命のための⾳楽)
Scoop out one of your eyes 5 years from now and do the same with the other eye  years later.
拙訳: 5 年ののちに⽚⽬を抉り出し、さらに 5 年後、残る⽬も同様に処せ。⼩杉武久(1964)
(https://id3419.securedata.net/artnotart/fluxus/tkosugi-musicforarev.html, 2025 年 6 ⽉ 22⽇閲覧)


この “楽譜” はもちろん概念的なものであり、 実演をそもそも想定してはいないが、あえて考えてみれば、 5 年後にもう⽚⽅の⽬を抉り取るには、その間、⽬も⾃らも⽣かしておかなければならない。『⾰命のための⾳楽』が 5 年という “休符” を含んだ困難なものならば、濱⼝によって記された “敗戦のための⾳楽” は、 蛆によっておそらく数⽇かそこらで “たやす く ” 成 さ れ 、 靉 光 の 代 表 作 の ⼀ つ で あ る 《 眼 の あ る ⾵ 景 》(cf., https://www.momat.go.jp/collection/o00442, 2025 年 6 ⽉ 23 ⽇閲覧)でもまた、荒涼とした岩場のごとき⾮-場所的な空間の奥から “まなこ” がこちらを⾒据えている。それは、ある “演奏者” が決然と抉り出した⽬というよりは、 蛆に⾷われゆく花⽥⼀等兵を「確認しつづけていた」“僕” の⽬なのかもしれず、“僕” の⾏為はすなわち、いずれ同じく腐乱する脳裏に、かの存在をひととき刻み込むことだったのだろう。


私は国への郷愁を感じる、
そこに私が⼀度もいず、
そこではすべての樹と花が
私を知っている、
そこへ私は⼀度も⾏ったことがない、
だがそこでは雲が
私のことを
正確に覚えている。
(ヒルデ・ドミーン 作、⾼橋勝義、⾼⼭尚久 共訳『雲を保証に ザブカのために』)


「だがそこでは雲が/私のことを/正確に覚えている。」と⾚松が発した時、⾚い雲を頭上に 戴 い た 陰 鬱 な 男 が 思 い 浮 か ん で 、 そ れ は 萬 鐵 五 郎 の 《 雲 の あ る ⾃ 画 像 》(cf., https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/79273, 2025 年 6 ⽉ 23 ⽇閲覧)だったが、同じ く 萬 の 代 表 作 で あ る 《 裸 体 美 ⼈ 》 ( cf.,https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213649 , 2025 年 6 ⽉ 23 ⽇閲覧)にも、そういえば⾚い雲が⼀つ浮かんでいる。 半裸の⼥性が寝転がった斜⾯、 丸みを帯びたその緑の稜線は、うなだれる男の猫背と重なって、 ⼆枚の絵、⼀組の男⼥は表裏⼀体なのではないか…という妄想を裏付けるものではないが、 《裸体美⼈》のモデルは萬の妻である「よ志夫⼈」と伝わっている(『没後 90 年 萬鐵五郎展 Yorozu Tetsugoro 1885-1927』図録, p.58)。


また野蛮⼈がやってくる。 皇帝の妻は勾引かされる。 太⿎が⾼く打たれる。 ⾺どもが屍を跳び越え、エーゲ海からダーダネルス海峡まで⾛るために、 太⿎は打たれる。だから、どうだというのだ。⾺の駆け競べが、妻たちにどう関係があるのか。
(中略)
われらの後にもホメロスは⽣まれてくるのだろうか……
万⼈のために、神話は扉を開いてくれるだろうか。
(マフムード・ダルウィーシュ 作、四⽅⽥⽝彦 訳『また野蛮⼈がやってくる』)


⽮内が「ホメロス」と発した時に思い出したのは、


ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて
(岡井隆『ウランと⽩⿃』短歌研究社, p.23)


で、サイマル演劇団+コニエレニ『フェルディドゥルケ』(詳細は、新野守広⽒のレビューおよび拙稿 https://www.subterranean.jp/review を参照のこと)において引⽤されたこの短歌を、 オレンジのカーペットが敷かれた舞台上で、 髪を振り乱しながらマイクに絶叫していた⾚松は、 ⽮内がダルウィーシュの詩を読み上げる今の間にも下⼿から奥の壁際、 舞台中央の椅⼦の後ろあたりに移動しており、その傍らに佇んでいた⼤は、背もたれから座⾯へぐるりと回るようにして下⼿の椅⼦へ向かって、腰かけ、新たな詩を読みはじめる。


満⽉を眺めながら、⾃意識過剰な頭痛を感じ街路樹の下の歩道を歩いている間、ウォルト・
ホイットマンよ、今夜僕はなにを考えたのでしょう。
僕の空腹による疲労、そしてイメジを買いながら、 僕はネオンの果物のスーパーマーケット
に⼊った、あなたの⼀覧表を夢⾒ながら!
(中略)
僕はぴかぴか光るカンヅメの棚を出たり⼊ったりしながら あなたについて歩く そして
僕の空想の中で店の探偵に尾⾏されている。
僕たちは⼤またに歩く 開け放しの通路を通り孤独な空想の中でチョウセンアザミの味を
みたり あらゆる冷凍⾷品を味あう、勘定場を通りはしない。
(アレン・ギンズバーグ 作、諏訪優 訳『カリフォルニアのスーパーマーケットで』)

“カリフォルニアのスーパーマーケットの、ぴかぴか光るカンヅメの棚” にはキャンベルスープ⽸もあったのだろう。1964 年に、ニューヨークのビアンチーニ・ギャラリーで開かれた「アメリカン・スーパーマーケット」では、アンディ・ウォーホルの “サイン⼊りキャンベルスープ⽸” をはじめ、 ⾷品や⽇⽤品を模した作品群がスーパーマーケット⾵のギャラリー 内 で ⼤ 々 的 に 販 売 さ れ た よ う だ が ( cf., https://cardigallery.com/magazine/pop-art/, https://veritybairdblog.wordpress.com/2018/01/02/warhols-american-supermarket/, ともに 2025 年 6 ⽉ 24 ⽇閲覧)、そこには着飾った⼈々が出⼊りし、「⼦ども
もなくさびしく⽼いて、あくせくと冷蔵庫の⾁をほじくりながら⾷品売場の少年を⾒ている」ウォルト・ホイットマン、「親愛なる⽗」とギンズバーグに呼びかけられた 19 世紀アメリカの⼤詩⼈の “うらぶれた” 姿はない。
⼤が「チョウセンアザミの味をみたり」と声に出した時には、⾚松は舞台中央の壁際から上⼿の⽮内の傍らまで移動しており、⼤が続ける「僕たちはひと晩中さびしい街を歩くのですか? (中略) 失われた愛のアメリカを夢⾒ながらあてもなく歩きまわるのですか」のごとく、上⼿の壁沿いを⾚松は彷徨う。

 

ベトナムにこれ以上地獄がないように
そしてわたしもこの街路でこんな真似をしなくていいように


戦争は⿊魔術だ
北と南 両ベトナムの腹の泡にすべての⼈間が包括される
⼈間の戦いをやめよ
(アレン・ギンズバーグ 作、 諏訪優 訳『ヌー夫⼈訪⽶反対デモにおけるプラカードの詩』)


ギンズバーグの詩を読む⾚松はもう彷徨を⽌めており、先と同じく舞台中央の壁際に⽴った彼⼥を照らしていたのは、交差した四筋の光だった。「戦争は⿊魔術だ」という⾚松の声に呼応するかのように、下⼿の椅⼦に座っていた⼤は⽴ち上がると、 中央の椅⼦、 チョコレート⾊のその傍らにしゃがんで台本を座⾯に広げ置いたが、リーディング公演の不思議さは、舞台上に “読み⼿” と “聞き⼿” が共存していることかもしれない。もちろん、⼀般的な舞台においても、 俳優は他の俳優の⾔葉を、 観客以上に注意を払って聞いているのはたしかだ。しかし、開いた本に視線を落とし、はらり、はらりとページをめくっていく姿から、ひるがえって観客は “聞いている私” という内省に駆り⽴てられ、それは複数の⾝体が、 役割をスイッチしながらも舞台上に存在し続けているためだろう。


まやかしを指摘し 恐怖なるもの
敵……サタンよ消えろ!
わたしはアメリカも中共も
どちらも⼈類として認める
ヌー夫⼈も⽑沢東も
おなじ⾁の⾈に乗っている


⾚松による詩の続きは、「地上における⾃然的存在たる⼈間としての価値からいえば、すべての⼈間は完全に平等であり、したがってすべての⼈間は⼈間であるという、ただ⼀つの資格によって⼈間としての⽣活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。」(⾦⼦⽂⼦ 「第⼗⼆回訊問調書」 より。 栗原康 編 『狂い咲け、 フリーダム̶̶アナキズム・アンソロジー』ちくま⽂庫, p.143)

⾦⼦⽂⼦の思想とも通じて、


我が好きな歌⼈を若し探しなば夭くて逝きし⽯川啄⽊


と⽮内が詠ったのを⽪切りに、


派は知らず流儀は無けれ我が歌は圧しつけられし旨の焔よ(⼤)


散らす⾵散る桜花ともどもに潔く吹け潔く散れ(⾚松)


⾃が指をみつめてありぬ⼩半時鉄格⼦外に冬の⾬降る(⽮内)


空仰ぎ「お⽉さん幾つ」と歌ひたる幼なき頃の憶い出なつかし(⼤)


あの⽉もまたこの⽉も等しきに等しからぬは我の⾝の上(⾚松)


是⾒よと云はんばかりに有名な⼥になりたしなど思ふ事もあり(⽮内)


指に絡み名もなき⼩草つと抜けばかすかに泣きぬ「我⽣きたし」と(⼤)


ホイットマンの詩集披けばクロバアの押葉出でたり葉数かぞふる(⾚松)


四ツ葉クロバア⼿触り優し其の⼼誰が⼼とぞ思ひなすべき(⽮内)

詠み交わされたのも⾦⼦の短歌だった。前述の『フェルディドゥルケ』においても、 岡井隆の短歌を四⼈の俳優が順々に詠み合うシーンがあったけれど、舞台上で⼀本のマイクを回し合う、 奪い合うという求⼼的な動きによって、パンクで騒々しい雰囲気に満ちていた。対して今回は静的で、台本と椅⼦の存在感がむしろ強まって枷のようだ。リ ー デ ィ ン グ 公 演 に お い て 、 台 本 と 椅 ⼦ は 基 本 的 な 道 具 ⽴ て の よ う だ が ( cf.,https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000280344, 2025 年 6⽉ 24 ⽇閲覧)、ストーリーではなく⾝体性に重きを置く⾚井の演出において、素直に考えれば、 俳優の動きを制限するそれらは “邪魔” なはずだ。しかし⾚井が、⾃らにとっても俳優にとっても “枷”(であり、“杖” でもある)かもしれないリーディングという形式をあえて選んだのは、台本や椅⼦が持つ他者性や異物性⾃体に、ある効果を⾒出したからではないか。

 

⾚井によるリーディング公演の近作としては『新ガザ・モノローグ 2024』および『ガザモノ ロ ー グ 2023 』 が 挙 げ ら れ る が ( 詳 細 は 拙 稿 http://subterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-120c77.html を参照のこと)、これらは原作として、パレスチナのヨルダン川⻄岸地区を拠点とするアシュタール・ シアターが企画・ 編纂したテキストを使⽤しており、そこには、 ガザ地区の惨状を素早く伝え、寄付⾦を直ちに送るという実際的な理由を含みつつも、 安易に共感したり、なり替わったりできない “他者” としての台本の存在があった。
今回の『抵抗の詩⼈』では、⼀⾒、俳優を助ける杖のような顔をした台本や椅⼦の “重⼒”こそが、むしろ詩⼈たちによって打倒されようとした “枷”、⾃由を脅かさんとする強権を暗⽰していたのかもしれないし、観客もまた、約 1 時間の公演中は椅⼦に “縛りつけられて” いる。想像すること。それが観客に許された、唯⼀にして最⼤の⾃由であった。


「⾃由というただひとつの⾔葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。 思うにこの⾔葉こそ、 古くからの⼈間の熱狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私のただひとつの正当な渇望にこたえてくれる。私たちのうけついでいる多くの災厄にまじって、 精神の最⼤の⾃由がいまなおのこされているということを、しかと再認識しなければならない。それをむやみに悪⽤しないことが、 私たちの役⽬である。 想像⼒を隷従に追いこむことは、たとえ⼤まかに幸福などとよばれているものがかかわっているばあいでも、⾃分の奥底に⾒いだされる⾄⾼の正義のすべてから⽬をそらすことに等しい。 想像⼒こそが、ありうることを私に教え、またそれさえあれば、おそろしい禁令をすこしでもとりのぞくのにじゅうぶんだ。そして、まちがえる⼼配もなしに、 私が想像⼒に⾝をゆだねるのにじゅうぶんだ。 想像⼒はどこからわるくなりはじめるのか、 精神の安全はどこで断た
れるのか? 精神にとって、あやまちをおかすことの可能性は、 むしろ善の偶然性なのではあるまいか?」(アンドレ・ブルトン 著,巖⾕國⼠ 訳『シュルレアリスム宣⾔・溶ける⿂』 岩波⽂庫, pp.9-
10)


そして⼋篇の詩、すなわち、


ズビグニェフ・ヘルベルト 作、関⼝時正 訳『記憶された三つの詩』(⼤)
アレクサンドル・ジノビエフ 作、川崎浹 訳『わたしの野望』(⾚松)
トリスタン・ツァラ 作、塚原史 訳『⼀つの道ただ⼀つの太陽』(⽮内)
同『海の星への道の上で フェデリコ・ガルシア=ロルカに捧げる』(⼤)
プッシー・ライオット 作、野中モモ 訳『セクシストを殺れ』(⾚松)
萩原恭次郎『断⽚』(⽮内)
同『断⽚ 40』(⼤)
ジーン・テイラー 作、⾚井康弘 訳『なぜキングは死んだのか?』(⾚松)


が挟まれた後、⽮内が『⾚と⿊−メーデーに寄す−』 (萩原恭次郎)を読み始めると、


………三⼗間幅の⼤都会の道路に何万⼈の⾜⾳は消えている
――ザフツ
――ザフツ
この荒寥たる広場へ
プロレタリアの⾏進は
地球の中⼼から
黎明の地平線から聞こえて来る!
==街⾓の⼤時計は⼀度にガツガツ時を刻み初める!


舞台中央の⼤は、あたかもスイングバイ航法を⾏う宇宙船のごとく、 ぐるりと半周した椅⼦の “引⼒” を利⽤して下⼿の⽅に舵を切る。そして、「ザフツ」「ザフツ」 の声に合わせて “ダンッ!” “ダンッ!” と⾜を鳴らしながら⾏進して、


――ザアフツ! ザツ!
――ザアフツ! ザツ!
(中略)
―ザアフザツ! ザフザ!
―ザアフザツ! ザフザ!
死の如く胸につまった静寂を破って
都会の⼼臓にプロレタリアの⾏進は近づいて来る!


と繰り返される “⾜⾳” を⾚松もまた唱えながら下⼿から上⼿に歩いたが、 台本を持って歩く 彼 ⼥ た ち の 姿 は 関 根 正 ⼆ の 《 信 仰 の 悲 し み 》 ( cf.,https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202693, 2025 年 6 ⽉ 26 ⽇閲覧)、両⼿に捧げものと思しき花や果物を載せて⾏進する⼈々と重なって、 両者に通ずる歩みのたくましさは、 ⾜だけが “蠢いて” いることに起因しているのではないか。 何度も⽴ち、 歩き、そして座る俳優たちの姿は、 観客に⽣活を連想させて、これまでずっと上⼿の椅⼦に腰かけていた⽮内が、

 

⽴派な⼈格などというものはまるで必要なかった
私たちの拒否不同意そして執着
私たちにはほんの少し必要な勇気があっただけだ
だが本当を⾔えばそれは趣味の問題だった
(ズビグニェフ・ヘルベルト 作、関⼝時正 訳『趣味の⼒』)


…と始まる詩を読みながらふいに⽴ち上がり、 座り、 ⾜を組み、また⽴ち…を繰り返したのは、⼤によって『現実が要求する』(ヴィスワヴァ・シンボルスカ 作、沼野充義 訳)が、⾚松によって『亡命者 W・B の⾃殺によせて』(ベルトルト・ブレヒト 作、野村修 訳)が読まれた後のことで、 続けてズビグニェフ ・ヘルベルトの別の詩を声に出しはじめた⾚松は⽴ち上がると、


⽉曜――全ての倉庫は空 ⿏が流通の単位となる
⽕曜――市⻑正体不明の複数実⾏犯により殺害
⽔曜――停戦協議数回 敵は特使らを拘束
彼等の居場所つまり囚獄場所を私は知らない
⽊曜――植⺠地貿易商たちの提出した無条件撤退案を
激論の集会で多数決により棄却
⾦曜――初のペスト患者 ⼟曜――不屈の守備兵
N.N.が⾃殺 ⽇曜――断⽔ 東側の《契約の⾨》と
呼ばれる⾨で突撃を⾷い⽌める
(ズビグニェフ・ヘルベルト 作、関⼝時正 訳『包囲された《町》からの報告』)


⼀週間のリズムに合わせ、椅⼦のまわりを衛星のごとく廻った。
なぜか知らぬが これらの光景の渦巻きは
わたしをいつも同じ停留所へと連れてゆくのだ
サントマルトへ ⿊い花模様をつけた将軍へ
森のほとりの ノルマンディ⾵な別荘へと
(中略)
そしてきみたち隠れ家の花束 やさしい薔薇たち
はるか遠い戦⽕の⾊をした アウジウの薔薇たち
(ルイ・アラゴン 作、⼤島博光 訳『リラと薔薇』)


⻘い⽇
⻘い⽇には
何も悪いことがお前には起こらない。
⻘い⽇
宣戦布告。
花々はその否を聞き、
⿃達は否を歌い、
王は泣いた。
誰もそれを信じなかった。
⻘い⽇
けれども戦争になった。

(ヒルデ・ドミーン 作、⾼橋勝義、⾼⼭尚久 共訳『⻘い⽇』)


⼤が残した “戦⽕の⾊をした薔薇” の印象は、 ⽮内の発した「⻘い⽇」 の響きをより鮮烈にし、その⻘が私に⼆つの作品を思い出させたのだが、⼀つはアートユニット・キュンチョメの《海の中に祈りを溶かす》 (cf., https://www.kyunchome.com/prayers, 2025 年 6 ⽉ 27 ⽇閲覧)だった。それは、酸素ボンベを背負った作家⾃⾝が、両⼿を合わせ、⾜を曲げた、胎児のようなポーズのまま潜⾏していく映像作品で、


「死なないで。」
「幸せでいて。」
「海が⻘いままでありますように。」
(同作品ページより)


という祈りの声が泡となり、 無数のクラゲのごとく海⾯へとたなびいていくのだが、 鶴⽥吾郎 《 神 兵 パ レ ン バ ン に 降 下 す 》 ( cf.,https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11410, 2025 年 6 ⽉ 27 ⽇閲覧)に描かれた、のどかな⻘空⼀⾯を広がり泳ぐ “クラゲ” 、あるいは“タンポポの綿⽑” は落下傘部隊だった。 キュンチョメによって海上へと届けられた祈りの泡、そして、その名のとおり地下劇場であるサブテレニアンから上げられた詩句の数々に、“⻘い⽇” を守る直接的な⼒は な い 。 し か し 、「 ブ ラ ジ ル の 蝶 の ⽻ ば た き が 、 テ キ サ ス で ⻯ 巻 を 起 こ す 」( cf., https://static.gymportalen.dk/sites/lru.dk/files/lru/132_kap6_lorenz_artikel_the_butterfly_effect.pdf, 2025 年 6 ⽉ 27 ⽇閲覧)のならば、巡りめぐって、“⻘い⽇々に、胸が張り裂けることが” 降ってこないよう、⾵向きを変える⼒はきっとあるはずで、「⻘い⽇々にも/胸が張り裂けることが。」と⽮内が⾔い終えるとともに、三冊の台本は、三匹の蝶のようにその “翅” を閉じた。 〈了〉
 

注)タイトルは、ボブ・ディラン『Subterranean Homesick Blues』の⼀節 “You donʼt need
a weatherman / To know which way the wind blows”
(https://www.bobdylan.com/songs/subterranean-homesick-blues/, 2025 年 6 ⽉ 27 ⽇閲覧)
を意訳したものである。

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