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MarginalMan19「民衆が立ち上がるⅦ」

マージナルな表現を指向するパフォーマンス

現在に屹立し、立ち向かっていくアーティスト
サブテレニアンはスクウォットになる

上演が終わって

​パフォーマンスにまつわるテキスト

米澤嶺

 

「臓器提供はやってはいけないことだ。」
これは幼い頃から私の両親がずっと言っていることである。両親は独特な考えを持っている。
私はある新興宗教の信者2世で、かつては宗教を信仰していた。もう信仰することはないけれど、とても愉快で楽しい信者生活だった。小心者の私は両親に宗教を信仰していないことを伝えていない。また、両親の独特な考えに迎合し、宗教を信じているフリをしている。それをやめたいと常日頃考えていた。
私は両親の独特な考えに迎合しないということを主張し、形として残したいと考えた。そこで今回は運転免許証、保険証の裏にある臓器提供の意思表示の欄に意思表示をした。
「臓器提供の意思表示」きっとこれは両親によく思われない内容だろうなと予感していたので、このパフォーマンスが両親にバレないように注意を払っていた。しかし、発表一ヶ月前にバレてしまい私の元にこのパフォーマンスを取りやめるよう何度か電話がかかってきたり、手紙が届いた。そのようなことがあったが無事パフォーマンスを上演することができた。特に何もなくパフォーマンスができたことは喜ばしいことだが、少し物足りなさを感じた。そのためパフォーマンスは両日同じ内容を上演する予定でしたが1日目と2日目で内容を少しだけ変えた。
このパフォーマンスは今までの自分自身の作品とは大きく傾向が異なるものだった。実験的というかほぼ実験だった。まだ解決されていない、自分自身のことを作品として昇華できるのか?自分自身はもちろん、自分にまつわる個人情報を晒すようなとても搾取的な面を含んでいる。そういった要素がありつつも、あくまでも前向きなドキュメンタリーにすることを心がけた。パフォーマンスは思いのほか好評だった。大変ありがたいことである。しかし、それがいいことなのかは分からない。
パフォーマンス中・終了後は取り返しのつかないことをしてしまったという感覚があった。それと同時に「やってよかった」清々しさと達成感もあった。これからは自分に正直且つ前向きに生きていきたい。

​アリサ・ミュラー

The lecture performance "how to swim" deals with a part of my personal life story on a visual and textual level. For quite some time, I've been personally interested in the concept of the curriculum vitae, particularly wondering which data it captures and which important information and data it neglects. Several years ago, I also began crafting a failed, alternative curriculum vitae listing all rejections and failures. In the performance, I singled out a moment, namely the day I failed the swimming test in Germany. The swimming test in Germany is associated with the awarding of a small seahorse badge, which was sewn onto your swimsuit or bathrobe by your mother after the test. I had never questioned why it was a seahorse, but the performance motivated me to delve deeper into these animals and find parallels between myself and the seahorse. Various materials were used, repurposed in their function, resulting in a performance that tells of failure but is successful as a performance itself.


レクチャーパフォーマンス「how to swim」は、私の個人的な生涯の一部を視覚的および文書的なレベルで扱っています。長い間、私は履歴書の概念に個人的に興味を持ち、特にそれがどのようなデータを収集し、どの重要な情報やデータを無視しているかを疑問に思っていました。数年前から、私はすべての拒絶と失敗をリストアップした、失敗した代替の履歴書の作成を始めました。パフォーマンスでは、私は特定の瞬間を選び出しました。すなわち、私がドイツで泳法テストに失敗した日です。ドイツの泳法テストは、テスト後に母親が水着やバスローブに縫い付ける小さなカワウソのバッジと関連しています。なぜそれがカワウソであるかは疑問に思ったことがありませんでしたが、このパフォーマンスは私をこれらの動物に深く掘り下げることに駆り立て、私自身とカワウソの間の類似点を見つけ出すことになりました。さまざまな材料が使用され、その機能が再利用された結果および失敗について語るが、パフォーマンスとしては成功したものとなりました。

泳ぎ続ける、届かない対岸に向かって
(ライター/平岡希望)

「人生で印象深い」
「人と共有していい」
「3年以上前の」
喜びについて考えてください…と問われたのは、3月16日に訪れた『MarginalMan19「民衆が立ち上がるⅦ」』でのことだった。

サブテレニアンに到着すると、舞台中央にはスクリーンが立てられており、出演前の木澤航樹(以下、敬称略)と米澤嶺が、その前でふたりして体操をしている、客席左のブースを見れば、技術スタッフの豊川涼太も、倣って両肩を回している。もう一人の出演者であるアリサ・ミュラーは、知り合いらしき人物と話しているが、本来ならば出演するはずだった喫茶みつるの姿はない。体調不良により辞退した旨が、企画・製作の赤井康弘から観客へ伝えられる。

1.    木澤航樹(きさわ・こうき)
そうして始まった『民衆が立ち上がるⅦ』、その一番手は木澤だったが、舞台上手、ノートPCの前に立った彼は、まず自己紹介から始める。子ども・学生時代は、親や教師から“ゴール”が与えられ、それを達成さえすれば喜びが得られたけれど、卒業し、働き始めるとそうではなくて、悩んだ時期がある…ということが、スクリーンに投影された、今や目にしない日はない『いらすとや』のフリー素材…1等賞の旗、100点のテスト、大学の合格通知、そして頭を抱えた人…と共に語られる。

そこから生まれた、「自分は/他者は、一体何に喜びを感じているか」「その喜びは共有可能か」という疑問を考察すべく、木澤が“喜び可視化システム”を開発したのは、彼が現在、システムエンジニアとして働いていることの反映でもあって、冒頭の“喜び”に関する質問はここで発せられた。

思い思いの“喜び”を浮かべつつ、提示されたQRコードを各自のスマホで読み込むと、画面には『“喜び”の可視化と“喜び”についての対話』というページが表示される。ここで求められていたのは、“可視化した喜び”として、黒バックの画面上を飛び散る粒子、その方向/速さ/量/サイズ/色をそれぞれ選択し、自分が今思い浮かべている喜びになるべく近づけることで、「(喜びが)上から来るのか、内側から、爆発するのか…」と言いながら、木澤は胸高に構えた両手を、腕ごと大きく広げる身振りで説明する。

ここからは対話会で、居合わせた観客各人が作った“喜び”のイメージをひとつずつ、まずはスクリーンに投影してみんなで眺めることから始まる。紫と、薄い黄土色と、白の大きめの粒子が、画面下部の真ん中あたりから、放射状に吹き出すような“喜び”が表示されると、「ここからどんな喜びか、みなさん想像できますか?」と木澤は客席に向かって問うが(少なくとも私には)全然わからない。

しかし、この“喜び”を作った“けいとさん”によって、「これははじめて家にグランドピアノがやってきた時のことで…紫はグランドピアノの“お姉さん”的な音色の、黄土色は、元々あったアップライト(ピアノ)のイメージ…」という説明を聞くと、にわかに粒子の動きが二台ピアノの旋律のように見えてきて、家にやってきたグランドピアノ、その鍵盤に、おずおずと人差し指を置いてみる“けいとさん”のイメージまで浮かぶ、「なかなかこういう話聞けませんよね」という木澤の言葉通り、初対面の人からなかなか聞ける話ではない。

各人のエピソードを全て聞くだけの時間はなかったけれど、ちょうどこの部分を書いている19日、再び『“喜び”の可視化と“喜び”についての対話』を開いてみる。私の作った“喜び”は、BB弾くらいの、あるいは炭酸の泡ぐらいの、選択肢の中でも一番ちいさな粒子(色は緑)が、下から上へとじわじわ立ち昇っていく…というもので、黒い画面の上まで広がるイメージだったが、いざ動かしてみると半分くらいの高さで消えてしまって、花火の“ナイアガラの滝”みたいだ。しかし、改めて自分の“喜び”を開いてみると、画面一番上まで届くようになっていて、「もうちょっと上まで広がると思ったんですよね…」と、対話会で漏らした私の一言を、おそらくパフォーマンス後に反映してくれたのだろう。

木澤は、「この“喜び”は、イメージ通りですか?」と、観客ひとりひとりに尋ねていて、簡単な調整ならその場で対応していたように、この“喜び可視化システム”は、今の瞬間にも、その精度を増し続けているはずだ。

2.    アリサ・ミュラー
…が、二番手のミュラーによって、言葉で、身体で語られたエピソードは、おそらく木澤の対話会で思い浮かべられることはないだろう、“挫折”にまつわるものだった。

舞台転換の時から、中央のスクリーンにはずっとタツノオトシゴが映されていて、カーネーションみたいな“水中花”の周りを、数匹がゆったりと漂っておりスクリーンセーバーのようだ。スクリーンとプロジェクター(の置かれた箱馬)の間には、1メートル四方くらいの、くしゃくしゃのブルーシートが敷かれ、スクリーンの間近、後ろ向きに置かれたパイプ椅子へ、改めて下手から登場したミュラーはすぐに座るが、その口元には二つ折りの帯みたいなものがくわえられていた。そして黄色い、ショート丈のレインコートみたいな上着の右ポケットから紙を取り出すと読み上げ始めるが、ドイツ語だということ以外わからない。しかし唯一、Meine Mutter(私の母)だけをかろうじて聞き取ったように、これは幼いミュラーと母親にまつわる話だ。読み終えたミュラーが、これまたポケットから取り出した黄色い指サックを、足の指1本1本に付け始める頃には、日本語と英語の自動音声が流れ始めていて、“カイバ”と発音されたその言葉が、“海馬=タツノオトシゴ”であることに少し遅れて気がつく。

私が小学生だった頃にも、水泳の時間に10、9、8…みたいな級があって、けのびしたり、潜水したりとひとつずつクリアしていき、白、黄色、緑…みたいなマジックテープをもらった(そして水泳帽の真ん中に貼り付けた)が、ドイツではタツノオトシゴ(Seepferdchen)のワッペンが一般的らしい。

そして“タツノオトシゴ”を貰うには、25メートルを泳ぎきることが条件のようだが、彼女は合格できなかった。だから母親に、ワッペンを縫ってもらうことができなかった/縫わせてあげることができなかった…という音声が流れる頃、とっくに立ち上がったミュラーは、両手にサメ型の水鉄砲?を持ってカチャカチャと引き金を引いている(彼女の腹部には映像が映りこみ、タツノオトシゴが泳いでいる)。引き金によってガブガブと動くサメの口を眺めながら、ゴールに向かって泳いでいる子供たち、その姿を見おろしている想像に浸れば、コースロープで仕切られた25メートルプールは、履歴書の学歴・職歴欄に繋がるかもしれない…と感じるのは、『民衆が立ち上がるⅦ』フライヤーの紹介欄(これもレーンのようだ)にあった、「アリサ・ミュラー(中略)履歴書の概念に深く入り込み、その弱点を探求する。…」という一文のためだ。

“サメ銃”を置き、両手のゴム手袋、足先の指サック、くわえていた帯、足に巻いた布(帯も布も魚のデザインだ)、羽織っていたレインコートを、あたかも、各コースの飛び込み台に立つスイマーのごとく床へ並べたミュラーは、ブルーシートの下に“深く入り込む”。観客ひとりひとりの手元には、彼女から渡されていた小ぶりなラバー・ダック(お風呂に浮かべる例のアヒル)が残された。

3.    米澤嶺(よねざわ・みね)
しかし、米澤に手渡されたのは、私の場合は“ブレスレット”で、左隣は手のひらサイズの蛇腹本、右隣りはお守りと、すべてある宗教にまつわる品だった。

転換が終わると、スクリーンに、今度は仏壇のような部屋の一角が映し出されていて、中央の大きな曼荼羅の周りには、小さな曼荼羅や写真が密集している。左手には、しめ縄と紙垂が掛かっている。

下手から登場した米澤は、そのまま床に正座してお経を唱え始めるが、私にとってはドイツ語と同じく、それがお経であることしかわからない。しかし、“じゅんていそわか…”と聞こえた気がして、それがもし「准胝観音」であれば、「准胝仏母」とも言われる“諸仏の母”らしいから、“タツノオトシゴ”を縫い付けられなかったミュラーの母と、図らずも響いているかもしれない。

舞台上手奥には、米澤によって描かれたらしい油彩画が、木枠から剥がされたキャンバス地の状態で吊るされており、座り込んで頭を抱えた人物(対して、木澤のスライドに出てきた、『いらすとや』の“頭を抱えた人”は立っていた)の周りにも人物数名が配され、画面両脇には“大きな口”がふたつ、白い歯をむき出しにしているが、どれも丹念で写実的な筆致で描かれている。

米澤が、観客にお札/蛇腹本/ブレスレット/お守り/授与品袋を配ったのは読経が終わった後で、配り終わると、「みなさんこんにちは~」と普通に挨拶する。自らを“宗教二世”と呼ぶ彼女は、裸足にスーツを着こんでいるが、吊るされた油彩の、メガネをかけた人物も同じく灰色のスーツを着ており、「楽しい“宗教二世”ライフをお伝えしていきます」と、米澤の淡々とした声が聞こえてくる。そうして語られたのは、布教のビラ配りをしていた小学生時代に、飛び込んだ花屋で千円をもらったという③『千円と勧誘』のエピソード(他の選択肢として①『ナムる』、②『塩とセンター試験』があって、多数決で③に決まった)で、「特に禁止事項もなく楽」だったし、「小学生までは信じていた」けれど、「それ以降はずっと信じていなくて、家族の前ではごまかし続けていた」という米澤がここで、免許証の臓器提供意思表示欄に記入しようとしているのは、それが教義(というより米澤の両親)にとって“禁忌”に当たるからだ。

免許証の、未記入の裏面を観客全員に見せて回った後、客席間近のノートPC、その前でペンを取り出し(観客は斜め後ろから、あるいは横からその姿を見ることになる)、臓器提供意思表示欄を読み上げ始めるが、
「1 私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します」
「2 私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します」
「3 私は、臓器を提供しません」
と、ここにも3つの選択肢がある。観客数人も、各々の免許証(あるいは保険証)を取り出して眺めている。

「選ぶとしたら1か2ですね…」と、ペンを構えて記入しようとしたタイミングで、ブツッと言う音と共にひそひそとした女性の声が流れてくる。それを聞いた米澤は、アロンアルファをポケットから取り出すと、頬に塗りたくり、観客から取り返したお札を貼りつける。反対の頬に塗っては、もう1枚のお札を貼り、剥がれ落ちたら貼り直し…を繰り返して、額と、左こめかみと、左頬にお札を、右頬と鼻にお守りを貼り、首筋に貼った蛇腹本は垂れ下がっている。さらにブレスレットを手錠のように巻いた姿で、その途中にも繰り返していたように、こちらへ正座し、うつむきがちに、「はい…はい…」と“声”に返事をしている(その返事の中には、「内容を変えます…」みたいな一言もたしかあった)。

…が、しばらくすると立ち上がり、元々着けていたらしいネックレスを、スーツの中から引っ張り出し、頭から外そうとするその動きに首筋の蛇腹本が絡みつくがもろとも外して振り捨てる(お札とお守りもその動きで取れる、取れなかったものは手で剥がす)。ブレスレットも床に放ると、「こちら、記入していきますね」とまた飄々とした調子で、PCの前に戻りペンを動かす。そこへ重なるように、今度は男性の声で、「おそろしい世界…」みたいな文言が聞こえてくるもペンは止まらず、書き終えた意思表示には、同じく“みね”の響きを持った本名が記されていた。

「パフォーマンスを終了します」と言った後にも、家族について話す(そして送られてきた手紙を公開する)という“パフォーマンス”が続いていたのは、免許証なら5年程度、保険証なら2年ごと、これからも意思表示を重ねていかなければならないこととも繋がる。「今度お会いした時は、親子仲どうなった?とお気軽にお尋ねください」という米澤の頬にはアロンアルファの跡が引き攣れのように残っていて、油彩の人物の、筆跡がうっすらと光る、ところどころ絵具の剥がれた頬みたいだ。
 

2024年3月16日(土)17時
2024年3月17日(日)17時

​料金/2000円

チケット予約/yoyaku@subterranean.jp

​問い合わせ/080-4205-1050(赤井)

技術/豊川涼太
宣伝美術/美秋(Meerkat-girl)
企画・製作/赤井康弘
主催/サブテレニアン

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