
MarginalMan26
民衆が立ち上がるⅩ
マージナルな表現を指向するパフォーマンス
現在に屹立し、立ち向かっていくアーティスト
サブテレニアンはスクウォットになる
ここにパフォーマンスアートの萌芽がある
人間が立ち上がる
あなたはそれを目撃しよう
3月22日(土)17時
3月23日(日)17時
出演
星善之
容原静
料金/2000円
チケット予約/yoyaku@subterranean.jp
問い合わせ/080-4205-1050(赤井)
技術/星善之(ほしぷろ)
宣伝美術/美秋(Meerkat-girl)
企画・製作/赤井康弘
主催/サブテレニアン


星善之
演出家・パフォーマー。
主に即興的なパフォーマンスを行う。
今回は「家」をテーマにパフォーマンスを行う。作品中に意見交換会(トークタイム)を設けた上で、最終的にどのような身体が立ち上がっていくのかを検証していく。
容原静
頭がパンクしそうこころが追いつかない。目の前に友が居たとして心をどれだけ傾けて居られる?僕は誠実でいれないな果たしてだれが誠実か。ちゃうからこうなってるのでは? こうって? 殴らないかん時が来る。ソレはいつ。いま。容原静です。よろしく。
星が車中泊の話をするとき、それは横軸の話で、アルバイトの話も交えて面白おかしく話す。
翻って、村ではよそ者であった幼少時の家の話をするとき、それは縦軸の話で哀しみがある。
縦と横が、観覧者も加わったイエ作りの行為の経緯とともに絡まっていく。観覧者はそのもつれた糸で絡めとられる。
パフォーマンスの最後、星は戦中歌とともに、短く踊る。
それを糸のほつれととるか、さらに絡み合う時間ととるか、その解釈は観覧者に委ねられる。
箱馬に座ってテキストを読む容原は、一見するとリーディングのようでもある。
しかし、彼はパフォーマンスアートを標榜している。
ジャンルの範疇が問題なのではない。どういう心持ちで、舞台(と呼ばれる空間)に現前しているのか。
リハーサルをし、2日間にわたってパフォーマンスをし、その再現性はどこまで担保されるのか。
果たして、再現するということは何を意味するのか。
狭義のプロフェッショナルから逸脱したそれは、ひいては近代からの解放である。彼の意図せざる結果だったとしても。
上演の揺れの結果の悲哀が、この長い1世紀の、機能性が良しとされた進化を遥々と超えてくる。
(赤井康弘)
「家」を巡る話
パフォーマンスの時に用意しているのは、作品テーマと大まかな構成、衣装、時々美術道具、あとは身体、音楽もある。劇場でやることを念頭においていないため、照明のことはあまり気にしていない。
あとは上演の時間を迎えて、緩やかに、溶けるように、パフォーマンスを始めるのが、常である。
「家」とは、漢字の原義的に言えば「寝(やす)む」場所のことを指すとのこと。日本の場合、神社的な役割を持つとかもあるらしい。人にとって、安らぎを感じられるようなところ、精神的にも肉体的にも落ち着かせるところが「家」なのかもしれないと仮説を立てたとき、僕が想定している「家」は、ハード面の家というより、人々の精神を支えるための家なのだと気がついた。
さて、パフォーマンスをはじめると、僕は家を作りはじめる。僕が怪我をしているという事実ベースの話をし、箱馬を使って家を作るという、もはや何を言ってるのかわけのわからないことをはじめ、人々にもその家づくりを手伝ってもらう。
普段演劇をやっていると、観客席から人が飛び出す瞬間はほぼ訪れないが、パフォーマンスだから、そんなことだって起こってしまう。
劇場という場所で、舞台面とされている領域に人が足を踏み入れること。劇場が遊び場に変わる瞬間であった。
「家」とは安らげる場所だと、考えてみると、今回の、家を作る時間は、安らぎのような時間だった。
しかし、僕は、それが理想であると考え、現実ではその安らぐ場所の家がどんどん奪われていく。無造作に、乱暴に。
そのことを考えたのは、ドイツで見たウクライナのライプパフォーマンスがきっかけだろう。彼女らは「家に帰りたい」「家を返してくれ」と叫ぶ。
戦争が終わるということは、平和が訪れるということは、人々にとっての「家(=安らぎ)」が守られている、ということなのだろう。それが達成されていないのが、今の世界なのだろうか。
だから、舞台の最後、無理矢理だが、みんなが作った安らぎの場所を、僕の身勝手な理由で、壊していく。それはあまりにも非道な行いだ。僕らは、本当に無自覚に、そういった小さな破壊をしているのだろう。
パフォーマンス、という行為を通して、芸術や生活という行為を通して、僕らはそういった、些細なことに気がついていく、はずなのだが、実はそうではない。そんなことを、気にすることはないのかも、しれない。
だが、今回のパフォーマンスでは、人それぞれの機微を、変化を、空間が受け止めていた。劇場が、有機的になる、瞬間。劇場のあり方も変わる瞬間だろう。今回はその片鱗が見えた、ような気がした。
劇場が、「家」になった。
(星善之)
この星の括りで見れば誰だって民衆で有るはずだから、この僕も立ち上がって見たらどうだろか。立ち上がって見たらどのような風景が見れるのだろうか。そのステップを踏む為に全てはしゃくしゃくと組み込まれ流されて行く。パフォーマンスアートという根源的な自分を用いた、冷たく熱い世界に私は立つ。自分自身の想像すら糸が断ち切られるように形を変えて行くのには驚きを隠せなかった。舞台上に立ち、演劇か朗読劇か詩的パフォーマンスなのかパフォーマンスアートなのかわからない部分で動作する。そうすると私はいつしか俯瞰的にも全編を通して私は私である、私は私でしかなかった。あのように表現される段階に自然と組み込まれて行く。はじめは激情や熱情、革命に向けた熱い血潮の血飛沫が私や周りに飛び散るモノこそが至る道と思いきや最終的に私の胸に落ちたのは、ただ私を愛した女の慈愛にも等しい友情の歌だった。民衆が立ち上がる時、ソレは軍靴を打ち鳴らす時ではない。ただ孤独でしかないこの命に宿る、私たちは根本的に連帯可能だから、そう呼ばれる個々人の意思が誰か、つまり私に宿るその瞬間なのだ。立ち上がる事すら儘ならぬ人間が、ある一つの愛によって、無謀にも立ち上がるその時こそを、私は、そしてあなたは、待っているのではないか。と、すれば、私はこの企画を通して、擬似的にも(あくまでもパフォーマンスなのだから)、然し本質的には欺瞞とは言い切れぬ魂の部分にて、立ち上がるプロセスに踏む事に成功したのだ。そして何故成功したのかということに意識を踏まえると、コレは私という個々人の営みによって達成されたとは言い難く、周りの協力、サブテレニアンに纏わる劇場と人の歴史が積み重なって産まれたモノである。と思う。よって、私は立ち上がった。ので、これから何をしようか。先ずは家のある奈良へ戻ることにしよう。奈良は星がよく見える土地である。あの土地でまた言葉を編み、心を変遷し、時が熟したら再びサブテレニアンの門を叩こう。ソレが、その未来に対する渇望を胸に収めてこの文章を閉じる事にする。次は誰が立ち上がるのか。バトンは粛々と受け継がれて行く。私は繋いだ。そんな気がする。だからこそ、新しい萌芽を目にするその瞬間を楽しみに眠る事にする。また逢いましょう。それでは。また。容原静。
(容原静)